1950年、「なやましブギ」で歌手デビューすると、以降、「あんたほんとに凄いわね」「毒消しゃいらんかね」「ガード下の靴みがき」「納豆うりの唄」など、次々とヒットを連発し、NHK紅白歌合戦にも出場した、宮城まり子(みやぎ まりこ)さん。
そんな宮城まり子さんは、幼い頃は裕福で、バレエや日舞を習うなどお嬢様として育てられたそうですが、小学校5年生の時には、お父さんの会社が破綻し、さらにはお母さんが病死してしまい、小学校卒業と同時に歌手を志して吉本興業に入社したといいます。
今回は、宮城まり子さんの、生い立ち(幼少期から吉本興業での舞台デビューまで)をご紹介します。
宮城まり子のプロフィール
宮城まり子さんは、1927年3月21日生まれ、
東京府蒲田(現・東京都大田区)の出身、
本名は、本目眞理子(ほんめ まりこ)
だそうです。
宮城まり子が幼い頃は当初はお嬢様もやがて男の子のように育てられていた
宮城まり子さんは、鉱山会社を経営するお父さんのもと、2人姉弟の長女として誕生すると、4歳の時から、バレエや日舞を習うなど、お嬢様として育てられたそうですが、
お染久松のお染めの柄(文楽・お染久松の演目よりお染めの顔を描いた着物の柄)が好きで、それを着て、しゃなりしゃなり(しなやかに気取りながら)と歩いていると、
それを好ましく思わなかった両親にやめさせられ、呼び名も「ボーヤ」に変えられて、釣りズボンを履かされ、男の子のように育てられたそうです。
(そのため、2歳年下の弟さんは、先に「ボーヤ」がいたため、「八郎ちゃん」と呼ばれて育ったそうです)
宮城まり子が幼い頃は母親の隣に座って絵を描くことが好きだった
また、宮城まり子さんは、幼い頃、お母さんの隣に座って絵を描くことが好きだったそうですが、
ある日のこと、いつものようにお母さんと並んで絵を描きながら、
お母様はどうしてそんなに絵がうまいの?
と、お母さんに尋ねると、
お母さんには、
まりちゃん、人の絵をうまいなどとは思ってはいけません。人は人。自分は自分。自分の絵をお描きなさい。感じたことをお描きなさい。
お母さんは大人になってしまったから、あなたのように素直な絵が描けなくなってしまったの。あなたにはあなたの絵があります。好きなようにお描きなさい
と、少し厳しめの口調で言われたといいます。
ちなみに、その後、お母さんの言いつけを守り、学校の絵の時間で、ラジオ体操をする人の絵を描いた時、その人がとても気持ちよさそうに見えたことから、感じたままに描いたそうですが(腕が背よりも長くなったそうです)、
先生には、
真面目に描きなさい
と、叱られてしまったそうです。
宮城まり子は小学5年生の時に父親の事業が破綻し母親は病死していた
そんな中、宮城まり子さんは、小学3年生の時、お父さんの仕事の関係で大阪に移り住んだそうですが、小学5年生の時には、お父さんの事業が破綻してしまい、さらには、お母さんが病気で亡くなってしまい、宮城まり子さんは、親戚の家に預けられたのだそうです。
(お父さんの事業が失敗したことで、大阪に夜逃げしたという話も)
宮城まり子は小学校卒業と同時に吉本興業に入り、17歳の時に舞台デビューしていた
そんな宮城まり子さんは、小学校卒業と同時に、歌手を志して、弟さんとともに吉本興業に入ると、歌謡曲を歌うようになったそうで、
歌唱グループを作って営業回りをする中、戦時中の1944年10月、17歳の時、「宮城千鶴子」名義で大阪花月劇場(吉本興業直営)で、初舞台を踏んだのだそうです。
「宮城まり子の若い頃は?デビューからのヒット曲や出演作品など経歴を時系列まとめ!」に続く
1950年2月、22歳の時、「なやましブギ」でレコードデビューすると、その後、次々とヒット曲を連発して歌謡歌手として人気を博し、女優としても活動すると、 41歳の時には、日本初となる肢体不自由児(身体障害者)のための養護 …