宝塚歌劇団の男役スターとして活躍すると、1958年、宝塚歌劇団退団後は大映に移籍し、「悪名シリーズ」でのモートルの貞(田宮二郎さん)の女房・お照役ほか、数多くの時代劇や映画に出演した、藤原礼子(ふじわら れいこ)さん。
今回は、そんな藤原礼子さんの若い頃からの出演作品や経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。
藤原礼子のプロフィール
藤原礼子さんは、1932年11月1日生まれ、
神戸市生まれ
身長155センチ、
血液型はO型、
ちなみに、本名は、藤原麗子で、当初は、宝塚歌劇団時代の芸名だった「大和七海路」で活動していたのですが、1960年に「藤原礼子」に改名しています。
また、息子は、俳優の若山騎一郎さんです。
藤原礼子は17歳の時に宝塚歌劇団に入団し男役スターとして活躍
藤原礼子さんは、1950年、17歳の時、宝塚歌劇団に37期生として入団すると、花組に配属され、「大和七海路(やまと なみじ)」名義で、男役スターとして活躍しました。
宝塚歌劇団時代の藤原礼子さん。
藤原礼子は21歳の時に宝塚映画「右門捕物帳・まぼろし変化」の端役で映画デビュー
また、藤原礼子さんは、宝塚歌劇団在団中の1954年、21歳の時には、宝塚映画「右門捕物帳・まぼろし変化」の端役で映画デビューも果たしています。
宝塚歌劇団時代、男役で活躍した藤原礼子さん。
(宝塚歌劇団時代には、もう1本映画に出演しているようですが、タイトルなどは不明です)
藤原礼子は26歳の時に宝塚歌劇団を退団し大映に入社すると「悪名」シリーズのモートルの貞の女房・お照役でブレイク
そんな藤原礼子さんは、1958年4月29日(25歳)に宝塚歌劇団を退団し、大映に入社すると、
以降、
- 1959年(26歳)
- 「かげろう絵図」
- 「薄桜記」
- 1960年(27歳)
- 「大菩薩峠」
- 「大菩薩峠 竜神の巻」
- 「元禄女大名」
- 「競艶八剣伝」
- 「犬神屋敷」
- 「わんぱく公子」
- 「忠直卿行状記」
- 「一本刀土俵入」
- 1961年(28歳)
- 「新源氏物語」
- 「花くらべ狸道中」
- 「潮来笠」
- 「水戸黄門海を渡る」
- 「木曽ぶし三度笠」
- 「天下あやつり組」
- 「好色一代男」
- 「続 悪名」
- 「かげろう侍」
- 「おてもやん」
- 「いれずみ乳房」
- 「釈迦」
- 「悪名」
- 「続・悪名」
- 1962年(29歳)
- 「爛」
- 「スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ」
- 「抜打ち鴉」
- 「陽気な殿様」
- 「婦系図」
- 「忍びの者」
- 「続・新悪名」
- 「瘋癲老人日記」
- 「青葉城の鬼」
- 「鯨神」
- 「怪談夜泣き燈籠」
「怪談夜泣き燈籠」より。 - 「新・悪名」
- 「続・新悪名」
- 1963年(30歳)
- 「座頭市喧嘩旅」
- 「てんやわんや次郎長道中」
- 「第三の悪名」
- 「悪名市場」
- 「悪名波止場」
「悪名波止場」より。(左から)藤原礼子さん、勝新太郎さん、田宮二郎さん。 - 「悪名一番」
- 「黒の札束」
- 1964年(31歳)
- 「黒の挑戦者」
など、主に時代劇に出演し、
特に、「悪名シリーズ」のモートルの貞(田宮二郎さん)の女房・お照役で人気を博しました。
「悪名」より。モートルの貞の女房お照に扮する藤原礼子さん。
藤原礼子は31歳で若山富三郎と結婚するも翌年にスピード離婚
また、藤原礼子さんは、1964年1月6日、31歳の時には、「悪名シリーズ」で共演した勝新太郎さんの兄で俳優の若山富三郎さんと結婚するのですが、翌1965年には、スピード離婚しています。
結婚披露宴での若山富三郎さんと藤原礼子さん。
藤原礼子は33歳の時に映画界を引退
その後、藤原礼子さんは、1965年、32歳の時、「新鞍馬天狗」で映画復帰すると、1966年、33歳の時には、「雁」「刺青」「続・酔いどれ博士」に出演しているのですが、この年で映画界を引退しています。
藤原礼子の死因は急性心停止
藤原礼子さんのその後の詳細は不明ですが、2002年9月24日、69歳の時、東京都内の自宅で亡くなっているのが発見され、死後、約1週間が経過していたといいます。
ちなみに、死因は急性心停止とのことでした。
(藤原礼子さんが他界された時の報道では、本名の”藤原麗子”と表記され、”元女優”となっており、芸能界から離れていたことが分かります)