1968年、佐川満男さんに提供した「今は幸せかい」で作曲家としてデビューすると、いきなり75万枚を売り上げる大ヒットを記録し、以降、「大阪の女」(ザ・ピーナッツ)、「喝采」(ちあきなおみさん)、「わたしの青い鳥」(桜田淳子さん)、「心のこり」「北酒場」(細川たかしさん)など、数多くのヒットを連発した、中村泰士(なかむら たいじ)さん。

今回は、中村泰士さんの若い頃(歌手デビュー~作曲家デビュー~)から他界されるまでの代表曲や経歴を時系列でご紹介します。

中村泰士

「中村泰士の生い立ちは?高校を2回中退?内田裕也と佐川満男のバンドでボーカルも!」からの続き

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中村泰士は22歳の時に「野良犬のブルース」で歌手デビューするも売り上げはパッとしなかった

中村泰士さんは、1957年、18歳の時、「リズムワゴンボーイズ」で、銀座、横浜、新宿、池袋のジャズ喫茶を転々としていたそうですが、そんな中、東芝にスカウトされたそうで、

1962年3月、22歳の時には、”銀座の裕次郎”というキャッチフレーズで、「美川鯛二」として「野良犬のブルース」で歌手デビューしたそうですが・・・

売り上げはパッとしなかったそうです。

(中村泰士さんがレコードデビューした時には、それまで大ブームだったロカビリーブームが終わり、歌謡曲が流行っていたそうで、中村泰士さんもそれにならい、リーゼントだった髪型を石原裕次郎さん風の髪形に変えて売り出したそうですが、売れなかったそうです)

「野良犬のブルース」
「野良犬のブルース」

中村泰士は22歳~23歳の時に「赤いヨットは死んでいた」「泣いていたのさ」「街灯」をリリースするも鳴かず飛ばずだった

その後も、中村泰士さんは、同年(1962年)5月には、2枚目のシングル「赤いヨットは死んでいた」をリリースするも、売り上げは思わしくなく、

その後も、1962年10月には、3枚目のシングル「泣いていたのさ」、1963年1月には、4枚目のシングル「街灯」とリリースするも、売上はパッとしない状態が続いたのでした。

「泣いていたのさ」
「泣いていたのさ」

中村泰士は26歳頃に「ネリカン・ブルース」をリリースするも放送禁止となっていた

こうして、シングル4枚が全く売れなかった中村泰士さんは、すっかり、歌う情熱が失せてしまったそうで、

27歳の時には、関西に戻り、ジャズ喫茶などで食いつないだのだそうです。

ちなみに、中村泰士さんは、同時期、練馬区少年鑑別所の受刑者の少年たちの後悔や愚痴を延々と歌った、「ネリカン・ブルース」もリリースしているのですが、

この歌は、退廃的、虚無的という理由で放送禁止となったそうで、広く知られることはなかったそうです。

「ネリカンブルース」
「ネリカン・ブルース」

(ただ、1973年に藤圭子さんのアルバム「演歌の旅 緋牡丹博打」に収録されたことでわずかに広まったそうです)

中村泰士は29歳の時に佐川満男に作詞作曲した「今は幸せかい」が75万枚を売り上げる大ヒットを記録していた

しかし、1968年、29歳の時、佐川満男さんに「今は幸せかい」を提供(作詞作曲)すると、75万枚を売り上げる大ヒット。

「今は幸せかい」
「今は幸せかい」

実は、1966年には、ビートルズが来日するなど、グループ・サウンズブームが続く中、エレキとは対象的な静かな歌が関西を中心にヒットしていたそうで、この「今は幸せかい」は、中村泰士さんが、自身の実体験をもとに作詞作曲した渾身の作だったといいます。

中村泰士は31歳~43歳の時に作曲家として「大阪の女」「喝采」「わたしの青い鳥」「心のこり」「北酒場」などをヒットさせていた

これをきっかけに、中村泰士さんは、芸名の「美川鯛二」を捨て、本名の「中村泰士」で本格的に作曲家として活動しはじめると、

  • 1969年には、いしだあゆみさんの「喧嘩のあとで口づけを」
    「喧嘩のあとで口づけを」
    「喧嘩のあとで口づけを」
  • 1970年には、ザ・ピーナッツの「大阪の女」
    「大阪の女」
    「大阪の女」
  • 1972年には、ちあきなおみさんの「喝采」※日本レコード大賞を受賞
    「喝采」
    「喝采」
  • 1973年には、桜田淳子さんの「わたしの青い鳥」
    「わたしの青い鳥」
    「わたしの青い鳥」
  • 1975年には、細川たかしさんの「心のこり」
    「心のこり」
    「心のこり」
  • 1982年には、細川たかしさんの「北酒場」※日本レコード大賞を受賞
    「北酒場」
    「北酒場」

などがヒットし、

ヒットメーカーとしての地位を築き上げたのでした。

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中村泰士の死因は?

ただ、中村泰士さんは、1985年、五木ひろしさんに提供した「そして・・・めぐり逢い」を最後に、大手レコード会社を通じた仕事はしなくなると(音楽活動は続けていたそうです)、

1995年には奈良県知事選、1996年には衆院選に立候補するも、いずれも落選。

その後、2000年代以降は、自らの歌手活動を再開し、ライブ活動も精力的に行っていたそうですが、

2020年9月末頃、体調不良を訴え、10月初旬に大阪市立大学医学部附属病院で検査を受けると、肝臓に腫瘍があることが判明し、同年12月20日午後11時50分、肝臓ガンにより、81歳で他界されています。

「中村泰士が佐川満男に作詞作曲した「今は幸せかい」は実体験だった!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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