“アンニュイで都会的ないい女””おしゃれミューズ”が代名詞となるなど、モデルとして独自の存在感で、女性を中心に絶大な人気を誇った、小林麻美(こばやし あさみ)さん。
そんな小林麻美さんは、幼い頃は、経済的には何不自由ない家庭で育つも、お父さんは別宅に愛人を囲ってほとんど帰宅せず、お母さんは仕事に忙しく、7歳年上のお姉さんが唯一の心の拠り所だったところ、そのお姉さんも結婚して家を出ていくと、
中学校進学後は、孤独を紛らわすように、反抗的な態度を取り、派手に遊び回っていたといいます。
今回は、小林麻美さんの生い立ち(幼少期~中学時代)をご紹介します。

小林麻美のプロフィール
小林麻美さんは、1953年11月29日生まれ、
東京都大田区の出身、
身長167センチ、
学歴は、
大田区立入新井第一小学校
⇒普連土学園中学校・高等学校
⇒文化学院(転入)
だそうです。
小林麻美の本名は?芸名の由来は?
小林麻美さんの本名は、「小林稔子(こばやし としこ)」(結婚後は「田邊稔子」)というそうです。
また、芸名の由来は、文化学院時代、美術科に、高校生にもかかわらず、イブ・サンローランの服を着て登校してくる先輩がいたそうで、小林麻美さんは、その先輩に憧れていたことから、
芸名を考える際、その先輩の名前「藤朝美」から「朝美」を勝手に頂戴し、「朝」を「麻」に書き換えたのだそうです。
小林麻美が幼い頃は裕福な家庭で何不自由なく育っていた
小林麻美さんは、国鉄(現・JR)の信号機などを設計する技術者だったお父さん・禎二(ていじ)さんと、美容院を経営していたお母さん・澄子(すみこ)さんのもと、2人姉妹の次女として誕生すると、
東京・大森という、神奈川県に近い東京南部の海沿いにある街で、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。
(お父さんは、その後、国鉄を退職し、埼玉県の大宮で信号機を作る町工場を経営していたそうです)
小林麻美が幼い頃は父親が別宅に愛人を囲ってほとんど帰ってこなかった
ただ、お父さんは、身長180cmの長身にがっしりした体格で、酒、ギャンブル、車、バイクを乗りこなす多趣味な遊び人だったことから、女性にとてもモテ、自宅のほかに別宅を持って愛人を囲い、ほとんと家に帰って来なかったそうで、
幼い小林麻美さんは、
パパ、いつ来たの?
もう帰るの?
が、口癖だったほど、お父さんとの思い出はほとんどなかったそうです。
(そのため、一家そろっての家族旅行なども一度もなく、動物園などに行く友達の家族がうらやましかったそうです)
小林麻美が幼い頃は母親が美容院経営で忙しくお手伝いさんに甘やかされて育てられていた
また、お母さんは、美容院を経営していたため忙しく、小林麻美さんはお手伝いさんに育てられたそうですが、
甘やかされてわがままに育てられたことから、偏食がひどかったほか、しばしば、頭やお腹が痛いと言って小学校を休んでいたそうです。
とはいえ、お父さんの女性問題で両親は夫婦ゲンカが絶えず、荷物をまとめて家出しようとするお母さんの姿に、幼い小林麻美さんは、常に怯(おび)えていたそうで、
サザエさんのような、学校から帰るとお母さんがおやつを用意して待っていてくれるような家庭に強く憧れたのだそうです。
小林麻美が幼い頃は7歳年上の姉が唯一の心の拠り所だった
そんな中、小林麻美さんの唯一の心の拠り所は、7歳年上の、明るく聡明でピアノや文学を愛するロマンティストのお姉さんだったそうで、
小林麻美さんは、お姉さんに強いコンプレックスを抱きつつも、お姉さんが読む太宰治や世界文学を、理解できないながら片っ端から読み漁るなど、お姉さんの言うことは何でも信じ、いつもお姉さんのマネをしていたそうですが、
そんなお姉さんも、小林麻美さんが小学校高学年の時には、結婚して家を出ていってしまったのだそうです。
小林麻美は中学生の時、反抗的で派手に遊び回り頻繁に補導されつつも孤独を感じていた
こうして、さらに一人の時間が長くなった小林麻美さんは、中学校に進学すると、空虚な心を埋めるように、スカートの丈を詰めるほか、指定外の靴を履くなど、反抗的な態度を取るようになり、
学校をサボって、武道館へローリング・ストーンズのライブを観に行ったり、(小林麻美さんはそれほどではなかったそうですが)「ザ・スパイダース」のファンだった親友と一緒に銀座の日劇ウエスタンカーニバルに通い詰めたり、グループサウンズの追っかけ(出待ち)をしたりしたほか、
(大人の匂いを感じたそうです)
中学1年生の時に、ハーフのボーイフレンドができると、横浜の米軍基地(本牧ベース)へも出入りするようになるなど、自由奔放に遊び回ったそうで、
しばしば、銀座で補導され、大田区の青少年保護センターで面接指導を受けるのが日常茶飯事だったそうで、
教師には、
職員会議であなたの名前が出ない日はない
と言われ、学校からは問題児としてマークされたのだそうです。
(それでも、小林麻美さんは、なんとか学校に残ることができたそうですが、一緒に「ザ・スパイダース」の追っかけをやっていた親友は不良少女の烙印を押されてどこかに転校させられたそうです)
ただ、そんな中でも、小林麻美さんは、文学や映画の趣味が合う友人がおらず、孤独感を抱えていたそうで、週末は一人で銀座の映画館へ通うほか、一人静かに読書をすることも好きだったといいます。
小林麻美は中学生の時、父親にビンタされたのをきっかけに更生を決心していた
そして、そんなある日のこと、お父さんの埼玉の別宅に、勝手に、友達や米軍キャンプで知り合ったボーイフレンドを連れていき、夜通し遊んでいると、突然、お父さんが帰宅して、友達の前で両頬をビンタされたそうで、
小林麻美さんは、そのまま、別宅を飛び出し、京浜東北線に乗り込んだそうですが、
ふと、
もう、やめよう。
こんな親のために、不良と呼ばれて人生を棒に振るなんて冗談じゃない。
と、思ったそうで、
小林麻美さんは、
あのとき、もし、逆ギレして自暴自棄になっていたら、私は取り返しのつかないところに行っていたと思うんです。“少女A”は、その夜で卒業しました
と、語っています。
小林麻美は中学3年生の秋に少女雑誌のモデルにスカウトされていた
そんな小林麻美さんは、将来は、大学に行って外資系の秘書になろうと決心したそうですが、中学3年生の秋、日比谷の映画館で「ローズマリーの赤ちゃん」を観ようと切符売り場で並んでいると、少女雑誌のモデルにスカウトされたといいます。
ただ、小林麻美さんは、秘書になろうと決めていたことから、この時は断ったそうですが、その日以降、連日、熱心に勧誘されたそうで、結局、根負けして、スカウトを受けたのだそうです。
「【画像】小林麻美は若い頃ライオンのCMで人気も持病で一度引退していた!」に続く
![]()
1970年7月、16歳の時、ライオンの歯磨きのCMに出演すると、たちまち人気を博すも、1972年、18歳の時、「初恋のメロディー」でアイドル歌手デビューすると、アイドルとしては、どこか気だるそうに歌う独特のスタイルで適性 …







