1973年春、19歳の時、実質的に芸能界を引退するも、1974年2月には、1年足らずで芸能界に復帰した、小林麻美(こばやし あさみ)さんは、当初、アイドル歌手としての活動はイマイチも、
1977年、23歳の時、パルコのCM「淫靡と退廃」に起用されると、たちまちブレイクを果たし、続く、資生堂「マイピュアレディ」のCMで一世を風靡すると、
1980年、30歳の時には、8年ぶりのシングル「雨音はショパンの調べ」も大ヒットして、歌手としても大成功を収めました。
今回は、そんな小林麻美さんの、若い頃(芸能界復帰以降)から現在までの経歴を、CMやヒット曲などを交えて時系列でご紹介します。

「【画像】小林麻美は若い頃ライオンのCMで人気も持病で一度引退していた!」からの続き
小林麻美は20歳の時に作曲家・筒美京平に芸能界復帰を願い出るも一度は突き放されていた
1973年春、19歳の時には、持病の神経性胃潰瘍が悪化したことで、実質的に芸能界を引退すると、その後は中学時代に憧れていた秘書を目指すも、華やかな芸能界が忘れられず、何をしても身が入らなかったという小林麻美さんは、
1974年2月(小林麻美さん20歳)には、思い切って、デビュー曲「初恋のメロディー」の作曲家である筒美京平さんのもとを訪ね、芸能界復帰を願い出たといいます。
ただ、筒美京平さんには、
一度辞めると言ったのに勝手すぎる。お嫁にでも行ってしまえ
と、激怒され、突き放されたそうで、
小林麻美さんは、泣き崩れたそうです。
しかし、それから1週間後には、筒美京平さんから、
新しい事務所を紹介するからやり直せ
と、電話が入ったそうで、
小林麻美さんは、今度は、嬉し涙を流し、同年5月、田邊昭知さん率いる「田辺エージェンシー」へ入ったのだそうです。
小林麻美は22歳の時にアイドル歌手として芸能界に復帰するも思うように売れなかった
そして、同年(1974年)10月には、シングル「ある事情」でアイドル歌手として芸能界に復帰したそうですが・・・
セールスは思うように伸びなかったそうで、

「ある事情」
その後も、
シングルでは、
- 1975年2月20日「アパートの鍵」

「アパートの鍵」 - 1975年7月5日「私のかなしみ」

「私のかなしみ」 - 1976年2月20日「夢のあとさき」

「夢のあとさき」
アルバムでは、
- 1974年12月1日「20才の愛」

「20才の愛」 - 1975年7月20日「パステル色の愛」

「パステル色の愛」
と、リリースするも、
またしても、ぱっとしないまま、アイドル歌手としての活動は自然消滅してしまったのだそうです。
小林麻美は22歳~23歳の時にモデル事務所で学ぶほか「オールナイトニッポン」のパーソナリティも務めていた
そんな中、小林麻美さんは、新しい可能性を求めて、日本モデル業界の草分け的存在だった岩崎アキ子さんのモデル事務所「ナウファッションエージェンシー」(現・「N.F.B」)で1年間学ぶと、
1975年には、「オールナイトニッポン」のパーソナリティも務めたそうです。
(人見知りで友達が少なかった小林麻美さんにとって、マイクを通して語りかける深夜放送は、何でも打ち明けられる親友のような存在となったそうです)
小林麻美は23歳の時にパルコのCM「淫靡と退廃」と資生堂「マイピュアレディ」のCMで一世を風靡していた
すると、1977年、23歳の時には、アートディレクターの石岡瑛子さんが手掛けたパルコのCM「淫靡と退廃」で、たちまちブレイクを果たし、

パルコのCMより。
資生堂「マイピュアレディ」のキャンペーンモデルにも抜擢されると、CM曲「マイピュアレディ」を歌った尾崎亜美さんと共に小林麻美さんも一世を風靡したのでした。

「マイピュアレディ」のCMより。
ちなみに、小林麻美さんは、PARCOのCM撮影について、
私は才能の集まる場所に足を踏み入れたんです。超一流と仕事をすることは、『魔術』にかかることだと知りました。ジャン・ルノワール監督の映画『ピクニック』のサントラを流しながら、石岡さんが踊れと私に言った。私は踊りました。
黒いタキシード姿の男性に後ろから抱かれながら、自分はこういう世界が好きだったんだと気づいた。力が結集している場所に自分はいると
当時パルコが最先端の広告をつくってて、たまたま22歳ぐらいのときに抜擢されたんですけど、スタッフが最高峰の方たちだったんです。私はまるで子ヒツジのように右も左もわからない中で、魔法つかいに魔法をかけられた感じでした。
などと、語っています。
(当時は広告の時代で、CMの重みが現在とはまるで違っていたそうです)
小林麻美は27歳の時に「野獣死すべし」でヒロイン、28歳の時に「真夜中の招待状」に主演
こうして、アイドル歌手のイメージを払拭し、時代のファッションアイコンとなって、大人の女性へのイメージチェンジに成功した小林麻美さんは、
1980年には、映画「野獣死すべし」でヒロイン、
1981年には、映画「真夜中の招待状」で主演を務めると、
身長167センチの長身で華奢(きゃしゃ)な体、都会的でどこか陰のあるアンニュイな雰囲気など、小林麻美さんの魅力が余すところなく発揮されたのでした。
小林麻美は30歳の時にシングル「雨音はショパンの調べ」が大ヒット
また、小林麻美さんは、1984年4月21日、30歳の時には、8年ぶりに歌手活動を再開し、イタリアの歌手・ガゼボの「アイ・ライク・ショパン」に、旧友の松任谷由実さんが日本語詞を付けたカバー曲「雨音はショパンの調べ」をリリースすると、
オリコン週間チャート3週連続1位を獲得するほか、歌番組「ザ・ベストテン」では8週間ランクインする大ヒットとなっています。
(ただ、「気休めは麻薬」という歌詞がひっかかり、テレビ番組では一度も歌うことが叶いませんでした)

「雨音はショパンの調べ」
小林麻美は30歳の時に松任谷由実プロデュースによる「CRYPTOGRAPH〜愛の暗号」が日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞
そして、1984年8月25日は、松任谷由実さんプロデュースによるアルバム「CRYPTOGRAPH〜愛の暗号」(「雨音はショパンの調べ」収録)をリリースすると、日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞したのでした。
小林麻美は34歳の時に日本武道館でコンサート「HUMIDITY」を開催
以降、小林麻美さんは、
- 1985年7月1日には、「ANTHURIUM〜媚薬」
- 1987年3月21日には、「GREY」
と、いずれも松任谷由実さんプロデュースによるアルバムを立て続けにリリースすると、
女性が憧れる女性像を見事に表現し、1988年、34歳の時には、日本武道館でコンサート「HUMIDITY」を開催するなど、歌手としても大成功を収めたのでした。
小林麻美は37歳の時に田邊昭知との結婚&出産を発表し芸能界を引退(2度目)していた
そんな小林麻美さんですが、1991年3月、37歳の時には、所属事務所の社長である田邊昭知さんとの結婚と出産を発表すると、主婦業と育児に専念するため、芸能界を引退(2度目)しています。
(小林麻美さんは2ヶ月前の1991年1月に出産しており、その際には、あまりに突然のことに世間を驚ろかせたのですが、業界内では周知の事実だったそうです)
小林麻美は62歳の時に女性ファッション雑誌「ku:nel(クウネル)」の表紙で芸能界に復帰していた
そして、それから25年の歳月が流れた2016年(小林麻美さん62歳)、小林麻美さんは、女性ファッション雑誌「ku:nel (クウネル)」(2016年7月20日発売)の表紙で芸能界に復帰しているのですが、
(大きな反響を呼び、その号の売れ行きは通常の約3倍だったそうです)

実は、小林麻美さんは、1991年に出産した一人息子が無事就職し、これからどうしようかと思っていた矢先、青山のオープンテラスのカフェで、お手洗いに立った際、偶然にも、ファッションプロデューサーの岩崎アキ子さんと、実に30年ぶりの再会を果たしていたそうで、
以降、一緒に食事をしたり、お芝居を観に行くようになったそうですが、そんな中、岩崎アキ子さんが、雑誌編集長の淀川美代子さんに小林麻美さんのことを話すと、ある日のこと、淀川美代子さんが小林麻美さんを復活させたいと言ったそうで、
(淀川美代子さんは、映画評論家の淀川長治さんの姪で、ファッション雑誌「Olive」や「an・an」などの編集長を務め、大ヒットさせているのですが、かねてより、小林麻美さんに雑誌に出てもらいたいと思うも、逆立ちしても無理だろうと、あきらめていたのだそうです)
岩崎アキ子さんは、
麻美さんを加えて、女3人ね。何だか面白そうだからやったんです。マーケティングや計算があったわけじゃない
と、語っているのですが、
このような経緯で芸能界に復帰することになった小林麻美さんは、また仕事ができるとは思っておらず、何の準備もしていなかったことから、プロにメイクされるのも何十年ぶりだったそうですが、カメラマンの指示に自然に動くことができ、自分自身、驚いたといいます。
小林麻美がずっと芸能界に復帰しなかった理由と25年後に芸能界に復帰した理由とは?
ちなみに、小林麻美さんは、25年間、芸能界に戻らなかった理由について、「週刊アエラ」のインタビューで、
出産・結婚で仕事や周囲に迷惑をかけました。だから二度と戻らないと決めた。結婚を選んだからには何かを捨てなければならない。それが私なりの禊(みそぎ)でした
と、語っているのですが、
逆に、芸能界に復帰した理由については、「女性自身」で、
いまは、3歩進んで2歩下がって、またちょっと横になって、1歩前へ、という感じかな。最初の一歩を踏み出すのは勇気がいりました。
でも、全力を注いだ子育ての時間があったからこそ、すっぱり気持ちを切り替えて、もう一度、何かお仕事をしてみようかなと思えたんです
と、語っています。
「小林麻美が親友・松任谷由実と突然決別した理由は?28年ぶりに再会していた!」に続く
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1984年、10代の頃からの親友だった松任谷由実さんのプロデュースによるシングル「雨音はショパンの調べ」が大ヒットを記録し、歌手としても、一躍、脚光を浴びた、小林麻美(こばやし あさみ)さんですが、 1991年3月、37 …

















