1971年、作曲家としてプロデビューを果たすと、1972年には、歌手として「返事はいらない」でデビューし、以降、「あの日にかえりたい」ほか、数々のヒット曲を連発した、松任谷由実(まつとうや ゆみ)さん。

そんな松任谷由実さんは、幼い頃は、呉服店を営む両親のもと、裕福な家庭で何不自由なく育ち、6歳の時にはピアノを、11歳の時には三味線を習い始めると、

中学時代に作曲を始め、高校1年生の時には、自作曲「愛は突然に」(後の「ひこうき雲)が、「ザ・タイガース」の加橋かつみさんによりレコード化されたといいます。

松任谷由実

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松任谷由実のプロフィール

松任谷由実さんは、1954年1月19日生まれ、
東京都八王子市の出身、

血液型はO型、

学歴は、
八王子市立第一小学校
⇒立教女学院中学校
⇒立教女学院高校
⇒多摩美術大学美術学部絵画学科

ちなみに、「松任谷由実」は本名で、旧姓は「荒井由実」です。

松任谷由実が幼い頃は裕福な家庭で育ち6歳からピアノを習っていた

松任谷由実さんは、老舗の呉服屋「荒井呉服店」を営む両親のもと、4人きょうだい(兄、姉、弟)の3番目(次女)として誕生すると、幼い頃は、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうです。

(松任谷由実さんが幼い頃、実家の呉服店には従業員が80人もいたそうです)

そんな松任谷由実さんは、小学1年生(6歳)の時に、ピアノを習い始めると、11歳の時には、三味線も習い始めたそうですが、三味線は長時間の正座で足が痺れることから2年で挫折してしまったそうです。

松任谷由実が小学校時代は成績がオール5の優等生だった

また、松任谷由実さんは、小学校時代は、代表委員会の議長を務め、成績はオール5の優等生だったそうで、両親はそんな松任谷由実さんを、将来は医者にさせたいと考えていたといいます。

松任谷由実は中学時代に礼拝堂のパイプオルガンでバッハを聞き衝撃を受けていた

そんな松任谷由実さんは、小学校を卒業後は、中高一貫のプロテスタント系ミッションスクールの立教女学院中学校に進学したそうで、毎日、礼拝の時間があったそうですが、

ここで、礼拝堂のパイプオルガンでバッハの「トッカータとフーガ ニ短調 BWV五六五」を初めて聴いて、衝撃を受けたそうで、

松任谷由実さんは、

パイプオルガンは教会全体が楽器。床の下にはパイプが通っているんです。バッハを聴いた瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。これは本当の話なんだけど、声までオルガンみたいになっちゃった。瞬間的に内耳の構造が変わったのかもしれない

と、語っています。

こうして、松任谷由実さんは、学校の聖歌隊に所属し、バッハやヘンデルなどクラシック音楽に親しむようになったそうですが、その一方で、日本初の洋楽番組「ビートポップス」にも夢中になったのだそうです。

(中学時代には作曲も始めたそうです)

松任谷由実は中学時代から六本木のディスコ通いを始めていた

また、松任谷由実さんは、音楽以外に絵も好きだったことから、美術大学を目指そうと、中学3年生の頃から家庭教師をつけてもらい、さらには、塾(御茶の水美術学院)にも通い始めたそうですが、

自宅のある八王子、学校のある三鷹台、美術学校のあるお茶の水と、この三角形を往復する毎日が始まると、やがて、新宿、池袋、六本木・飯倉界隈で遊ぶようになり、頻繁にディスコ通いをするようになったのだそうです。

そして、この頃、まだ15歳だった松任谷由実さんですが、六本木のディスコでは、後に、レコードをプロデュースしてもらう、かまやつひろしさん、細野晴臣さんほか、グループサウンズのメンバーや、後に共演することになる多くのミュージシャンと知り合ったのだそうです。

松任谷由実は中学時代「ザ・フィンガーズ」の追っかけをしていた

ちなみに、松任谷由実さんは、中学時代、「ザ・フィンガーズ」というバンドの追っかけをしていたそうで、このバンドのC.U.チェンさんは、その時のことを、

そのころ、ユーミンは、僕が参加していた、「ザ・フィンガーズ」というバンドの〝追っかけ〟だったので、 新宿の『ACB』や池袋の『ドラム』といった、都内のジャズ喫茶でよく話をしました。出会ったころのユーミンは、ショートカットでニキビがいっぱいあって、女性というより、面白い女の子という印象でしたね。

と、語っています。

また、松任谷由実さんは、立川や横田の米軍基地にある、PX(売店)に入り浸っては、海外の最新レコードを購入する、熱心な音楽ファンだったそうです。

松任谷由実は15歳の時に後の「ひこうき雲」となる曲を作曲していた

そんな松任谷由実さんは、中学卒業後は、立教女学院高校に内部進学すると、高校1年生の時には、(後の「ひこうき雲」となる)曲を作曲すると、ディスコで親しくなったC.U.チェンさんに自作のカセットテープを渡したそうですが、

チェンさんは、このカセットテープを聴いて衝撃を受けたそうで、音楽プロデューサーの川添象郎さんに松任谷由実さんを紹介すると、

川添象郎さんは、文化人や著名人が集うイタリア料理店「キャンティ」のオーナーの息子だったことから、このことが縁となり、「キャンティ」に出入りしていた「ザ・タイガース」の加橋かつみさんに、このカセットテープが渡ったのだそうです。

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松任谷由実が15~16歳の時自作の曲「愛は突然に」が「ザ・タイガース」の加橋かつみによりレコード化が決定していた

すると、1970年の正月を過ぎた頃、加橋かつみさんが、アルバムのディレクターの本田和治さんに、

高校生が作ったんだけど

と、松任谷由実さんが作ったこの曲を自身のアルバムに入れることを希望したことから、松任谷由実さんの曲のレコード化が決まり、「愛は突然に」と名付けられたのだそうです。

ちなみに、松任谷由実さんは、追っかけをするほどの「ザ・タイガース」のファンだったそうで、その「ザ・タイガース」の加橋かつみさんが歌ってくれるという連絡を受け、驚きつつも嬉しくて舞い上がったといいます。

「松任谷由実の夫・松任谷正隆との馴れ初めは?子供は?交際のきっかけはダリアの花!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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