大学卒業後は、「エレックレコード」と契約するも、アーティスト契約ではなく、月給制の契約社員という扱いだったうえ、ソロデビュー曲「イメージの詩」が、発売前に滅茶苦茶なアレンジで、吉田さんに無断で販売されるなど、散々だった、吉田拓郎(よしだ たくろう)さんですが、その後、事務所を移籍すると、ついに大ブレイクを果たします。
「吉田拓郎のソロデビュー曲「イメージの詩」は当初無断で販売されていた!」からの続き
アルバムを立て続けに発売するも・・・
1970年6月、「エレックレコード」より「イメージの詩」でソロデビューした吉田さんは、
その後も、
1970年11月「メモリアルヒット曲集 ’70 真夏の青春」
「メモリアルヒット曲集 ’70 真夏の青春」
1971年6月「よしだたくろう・オン・ステージ!! ともだち」
と、立て続けにアルバムを発売しているのですが、
「エレックレコード」は、小さな会社だったため、レコーディングのためのスタジオが取れなかったり、吉田さん自身やバックがミスをするほか、アレンジも良くなく、内容はあまり良くなかったそうです。
また、1970年11月にリリースされた、「メモリアルヒット曲集 ’70 真夏の青春」は、レコードではなく、「朝日ソノラマ」からソノシート3枚組ボックスとして発売されたもので、もともと、写真情報誌「朝日ソノラマ」で3回に渡って吉田さんが紹介された際、付録として付けられていたソノシートと同じものを、3枚まとめて箱に入れて販売されたそうです。
「エレックレコード」最後のアルバム「人間なんて」を発売
そんなこともあり、早稲田大学の学生でありながら、イベントの企画を手掛けていた、後藤由多加さんの目に留まり、コンサートで起用されるようになっていた吉田さんは、
1971年10月には、後藤さんとともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション「ユイ音楽工房」を設立します。
(ちなみに、翌月の11月には、「エレックレコード」最後のアルバム「人間なんて」を発売しているのですが、このアルバム、吉田さん自身がプロデュースし、ディレクターには加藤和彦さん、アレンジャー兼参加ミュージシャンには、小室等さん、遠藤賢司さん、松任谷正隆さん、林立夫さん(後の「ティン・パン・アレー」)、小原礼さん(後の「サディスティック・ミカ・バンド」)、後に吉田さんとコンビを組むことになる作詞家の岡本おさみさんなど、後の日本のロック&ポップス界で活躍する錚々(そうそう)たるメンバーが勢揃いしていたそうです。)
「人間なんて」
「結婚しようよ」が大ヒット
そして、翌年の1972年1月には、「エレックレコード」から、「CBSソニー」(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍すると、移籍と同時にリリースした3枚目のシングル「結婚しようよ」が、3月にはオリコンチャート3位を記録し、40万枚を売り上げる大ヒット。
僕の髪が肩までのびて 君と同じになったら 約束どおり 町の教会で 結婚しようよ
で、始まる、男性からのプロポーズソングは、それまでの日本にはないものだったことから、
吉田さんは、甘いマスクと相まって、”フォークのプリンス”と騒がれ、若い女性ファンが一斉にコンサート会場に押しかけるなど、たちまちスターダムに駆け上がったのでした。
「結婚しようよ」
ちなみに、それまで、反体制のシンボルだったフォーク・ソングが、若者のポップミュージックとして一般的となったのは、この「結婚しようよ」の大ヒットがきっかけだったそうで、
後に、吉田さんは、この曲について、
ヒットさせるつもりで作った
と、語っています。
(この「結婚しようよ」は、学園闘争に破れた若者たちの間で虚無感が広がっていたことや、アメリカからヒッピー文化が到来したことなど、当時の時代背景もヒットを後押ししたそうで、現在のミリオンヒット以上の強烈なインパクトを残したそうです)
「吉田拓郎は昔ステージでビール瓶を投げつけられていた!」に続く