1972年、「キャラメル・ママ」を結成すると、その後、アレンジャー、プロデューサーとして、松任谷由実さん、松田聖子さん、ゆず、いきものがかりなどのアーティスト作品やコンサートの演出に携わっている、松任谷正隆(まつとうや まさたか)さん。
そんな松任谷正隆さんは、4歳からクラシックピアノを習い始めると、絶対音感により耳で聴いたメロディーをすぐにピアノで弾けるようになるなど、早くも音楽の才能を発揮し、中学時代には、カレッジフォークに目覚めると、自身もバンドを組んで活動するようになったそうですが、虚言癖があったり、パニック障害にも悩まされていたといいます。
今回は、松任谷正隆さんの生い立ち(幼少期から大学時代まで)をご紹介します。
松任谷正隆のプロフィール
松任谷正隆さんは、1951年11月19日生まれ、
東京都杉並区上高井戸の出身、
血液型はA型、
学歴は、
日の丸幼稚園
慶應義塾幼稚舎
⇒慶應義塾普通部・慶應義塾高等学校
⇒慶應義塾大学文学部卒業
ちなみに、「松任谷正隆」は本名で、愛称は「マンタ」です。
松任谷正隆は幼少期から絶対音感により耳で聴いたメロディーをすぐにピアノで弾くことができた
松任谷正隆さんは、横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)に勤めるお父さんの功三郎さんと専業主婦のお母さんの和子さんのもとに誕生すると、
4歳からクラシックピアノを習い始めたそうですが、絶対音感があり、耳で聴いたメロディーをすぐにピアノで弾けるようになるなど、早くも才能を発揮したそうです。
ただ、ピアノ教室に通うことは大嫌いで、地道な練習をすることも苦手だったそうで、好きなように鍵盤を叩き、自由に音を出すことを好んでいたそうです。
また、松任谷正隆さんは、非常にIQが高く、幼稚園から慶應義塾に進学しています。
松任谷正隆の幼少期は裕福な環境で何不自由なく育っていた
松任谷正隆さんは、幼少期、東京都杉並区上高井戸に住んでいたそうですが、そこは、大地主で多くの不動産収入がある、父方の祖父・松任谷喜三郎さんの家だったそうで、
その家は環八沿いにあり、現在、佃公園となっている広大な敷地には、池やテニスコートがあったほか、松任谷正隆さんの部屋も12畳あり、とても裕福な環境で育ったそうです。
松任谷正隆は小学生の頃は虚言癖のあるわがままな少年だった
ただ、松任谷正隆さんは、小さい頃からよく嘘をついていたそうで、
小学生の時には、
電車でお年寄りが席の前に立ったとき、譲る勇気が出なかったけど、最終的に勇気を出して譲った
と、作文を書き、毎日小学生新聞で特選を受賞したことがあったそうですが、
実は、この内容は真っ赤な嘘で、実際には、寝たふりをしていただけだったといいます。
さらに、松任谷正隆さんは、女の子にモテたい一心で、
フットボールをしている
指揮を習っている
と嘘をつき、学校のオーケストラの指揮台に上がることもあったといいます。
そして、松任谷正隆さんは、わがままな少年だったそうで、おもちゃ屋の前で欲しいものがあると、大の字に寝て動かなくなってしまうことがあったといいます。
松任谷正隆が小学校低学年の時はパニック障害で学校生活が困難だった
また、松任谷正隆さんは、小学校低学年の時には、パニック障害にかかり、通学中の都電の車内で気分が悪くなることがあったそうで、
途中で駅長室で休んだり、学校が嫌になって不登校になったこともあったほか、団体行動が苦手で、中学と高校の修学旅行には全て参加しなかったといいます。
松任谷正隆は小学校時代の通学途中で偉大なピアニストになるという妄想にふけっていた
それでも、松任谷正隆さんが通学を続けられたのは、電車の中で一人で空想にふけっていたからだったそうで、
偉大なピアニストになって、観客から大きな拍手を受ける
という、想像の世界に浸っていたのだそうです。
松任谷正隆は中学時代にカレッジ・フォークに目覚めるも勉強が疎かになり親に止められていた
また、松任谷正隆さんは、小学校を卒業するまで、音楽といえばクラシックしか知らなかったそうですが、
(クラシック音楽が好きという訳ではなかったそうですが、それ以外の音楽は汚いと思っていたのだそうです)
1964年、慶應義塾普通部(中学校)に進学すると、小学校時代のかつての同級生が、女の子を相手にカレッジ・フォークを演奏している姿にカルチャーショックを受け、
同時に、こんな何でもない連中ができるなら、絶対音感がある自分はもっとできるはずだと、腹も立ったそうで、
松任谷正隆さんは、初めて、クラシック以外のレコードを買い、友だちとフォークバンドを作ったのだそうです。
(ただ、そのせいで勉強がおろそかになり、落第寸前となって親に止められてしまったそうです)
松任谷正隆は高校時代も音楽に明け暮れて進学が危うくなり両親に家庭教師を5人も付けられていた
そんな松任谷正隆さんは、慶應義塾高等学校に進学後は、再び音楽への情熱が燃え上がったそうで、
おばあちゃんからお金を借りて高価なバンジョーを買い、大学生とバンドを組んで、音楽に明け暮れる日々を送ったそうですが、
(当時はまだ楽譜が市販されていなかったため、採譜ができる松任谷正隆さんは仲間から重宝されたそうです)
またしても、そのせいで、勉強がおろそかになり、成績はクラスでビリから2番目にまで落ちてしまい、大学へ内部進学できるとすれば文学部しかなかったそうですが、それも危うくなってしまったそうで、
今度は、両親に家庭教師を5人も付けられ、勉強漬けの毎日を送ったのだそうです。
松任谷正隆は20歳の時にアマチュアコンテストで優勝しスカウトされていた
こうして、松任谷正隆さんは、どうにか慶應義塾大学の文学部に進学できたそうですが、パニック障害が続いていたため、普通の会社員にはなれそうにもなく、長い休みのある、学校の先生にでもなろうと考えていたそうです。
とはいえ、音楽の才能の自負はあったものの、自分を受け入れてくれるところがあるのだろうかと不安もあったそうです。
そんな中、松任谷正隆さんは、20歳の時、高校時代の友人・菅節和さんがアマチュアコンテストに出場した際、そのバックでピアノを弾くと、(お客もまばらで拍手もなかったそうですが)ダントツで優勝したそうですが、
片付けを終えて帰ろうとしている時に、審査員を務めていたフォーク・クルセダーズの加藤和彦さんが、肝心の(ミュージシャンになりたい)菅節和さんには目もくれず、松任谷正隆さんとドラムの林立夫さんに声をかけてきたそうで、
菅節和さんへの遠慮や、自分の演奏もうまくはないと思っていたことことから、松任谷正隆さんはに困ってしまったといいます。
「【画像】松任谷正隆の若い頃から現在までのアレンジ作品や経歴を時系列まとめ!」に続く
1971年、20歳の時、ステレオのコマーシャル音楽のレコーディングセッションに参加すると、「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」の活動を経て、1973年、21歳の時には、ロックバンド「キャラメル・ママ」を結成し、その後は、プ …