1967年、「恋のハレルヤ」でレコードデビューすると、ミニスカート姿にパンチの効いた歌声でたちまち注目を集め、その後も、「天使の誘惑」「夕月」と、次々ヒットを飛ばした、黛ジュン(まゆずみ じゅん)さん。

そんな黛ジュンさんは、幼い頃は、歌手志望だったお母さんにラジオから流れる流行歌を聞かされて育ち、毎日、ちゃぶ台をステージにして歌を歌っていたそうで、

そんな中、お父さんが事業に失敗して多額の借金を背負ったことから、家計を支えるため、8歳の時から流しの歌手として家計を支えたといいます。

今回は、黛ジュンさんの生い立ちをご紹介します。

黛ジュン

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黛ジュンのプロフィール

黛ジュンさんは、1948年5月26日生まれ、
東京都調布市の出身、

身長160センチ、

靴のサイズは22.5センチ、

血液型はO型、

本名は、「渡邊順子(わたなべ じゅんこ)」

学歴は、
豊島区立高松小学校
⇒品川区立冨士見台中学校
⇒私立上野学園高校卒業

趣味は、音楽鑑賞とガーデニング、

お兄さんは、作曲家の三木たかしさんです。

黛ジュンが幼い頃は歌手志望だった母親に流行歌を聞かされて育てられていた

黛ジュンさんは、4人きょうだい(兄2人妹1人)の3番目で長女として誕生すると、幼い頃は、歌手志望だったお母さんに、美空ひばりさんや島倉千代子さんなど、ラジオから流れる流行歌を聞かされて育ったそうで、

歌手の夢をお母さんに託され、毎日、ちゃぶ台をステージにして家族の前で歌を歌っていたそうですが、

家族から厳しくダメ出しされるほか、4歳の時には、日本舞踊、バレエ、歌を習わされたそうで、内向的で頑固な性格だった黛ジュンさんは、嫌でたまらず、泣きわめいて抵抗したそうです。

黛ジュンは8歳の時から家計を支えるために流しの歌手活動を始めていた

そんな中、お父さんが事業に失敗して多額の借金を背負い、経済的に困窮したそうで、

黛ジュンさんは、8歳の時に歌手活動を始めると、9歳の時には霧島昇さんらの前座歌手を務めるほか、お兄さん(三木たかしさん)と一緒に流しをやって家計を支えたそうで、

黛ジュンさんは、

歌いたいという感情より、(自分が歌うことで)家計の助けになるならうれしかった

と、語っています。

(黛ジュンさんの一家は何度か夜逃げをしたこともあったそうです)

黛ジュンは15歳で歌手デビューするも鳴かず飛ばずだった

そして、1964年、15歳の時には、本名の「渡辺順子」名義でデビューを果たしたそうですが・・・

ヒットを飛ばすことはできなかったそうで、中学卒業後は、各地の米軍キャンプを回り、ジャズや大好きなビートルズの曲を歌ったのだそうです。

黛ジュンは19歳の時に「恋のハレルヤ」で再デビューしていた

すると、そんな中、ラジオ局のディレクターに声を掛けられ、デモテープを作ることになったそうですが・・・

君のポップスは声に特徴がありすぎる

と、ほとんどのレコード会社から断られてしまったのだそうです。

しかし、1967年、19歳の時、石原プロモーションに移籍し、「黛ジュン」名義で、「恋のハレルヤ」で再デビューすると、ミニスカート姿にパンチの効いた歌声が、たちまち脚光を浴びます。

「恋のハレルヤ」
「恋のハレルヤ」

黛ジュンは19歳の時に4枚目のシングル「天使の誘惑」が大ヒット

そして、1968年、19歳の時には、4枚目のシングル「天使の誘惑」(1968年5月1日リリース)が46万枚を売り上げる大ヒットを記録し、同年末には、「第10回日本レコード大賞」を受賞したのでした。

「天使の誘惑」
「天使の誘惑」

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黛ジュンは20歳の時に5枚目のシングル「夕月」もヒットを記録

また、1968年9月10日にリリースした5枚目のシングル「夕月」も、66万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、

自身のヒット曲をもとにした同名の映画「天使の誘惑」「夕月」では、主演を務め、女優としても活躍したのでした。

「夕月」
「夕月」

(「夕月」はお兄さんの三木たかしさんが作曲をしています)

「黛ジュンの元夫は?再婚相手は?大物政治家の愛人だった!子供は?」に続く

お読みいただきありがとうございました

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