1964年、「涙を抱いた渡り鳥」でデビューすると、1966年には、「いっぽんどっこの唄」がミリオンセラーを記録した、水前寺清子(すいぜんじ きよこ)さん。そんな水前寺さんのルーツについて調べてみました。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

水前寺さんは、1945年10月9日生まれ、
熊本県熊本市中央区のご出身、

身長158センチ、

血液型はO型、

学歴は、
熊本市立碩台小学校
⇒洗足学園中学校・高等学校卒業

趣味は、
押し花絵、花を育てること、

ちなみに、本名は、林田民子(はやしだ たみこ)ですが、芸名の「水前寺」は、故郷である、熊本市の水前寺成趣園から、「清子」は、熊本ゆかりの戦国武将、加藤清正から取られたそうです。

また、愛称の「チータ」は、作詞家の星野哲朗さんが、本名である民子(たみこ)から「小さい民子の気持ちを忘れないように」と名付けてくれたそうで、「初心を忘れるな」という星野さんの思いが詰まっているそうです。

(動物のチーターとは直接関係はありませんが、チーター柄の着物を着用することがあるそうです)

少女時代は両親と夜逃げ~将来を託される

水前寺さんは、子どもの頃、体が弱く、走ったり体を動かしたりすることが苦手だったのですが、歌うことは得意で、地元の歌謡コンクールに、大人に混じって出場しては賞を受賞し、小学生ながら「のど自慢荒らし」と呼ばれます。

そんな中、水前寺さんが小学校卒業間近の暮れのこと、突然、お父さんに、

東京に行って歌手になるんだよ

と言われて、家族と夜行列車「あさかぜ」に乗って東京へ。

水前寺さんは、遠足気分だったそうですが、実は、ご両親は地元熊本で営んでいた化粧品店事業に失敗しており、歌のうまい水前寺さんに将来を託した、夜逃げの上京だったのでした。


寝台特別急行列車「あさかぜ」

(水前寺さんは、デビュー後になって、初めてこの事実を週刊誌の記事で知ったそうです)

「涙を抱いた渡り鳥」で念願のデビュー

こうして、一家の再興を水前寺さんにかけていたお父さんは、水前寺さんが中学生になると、厳しい生活の中、工面して音楽学校に通わせたそうですが、

当時の水前寺さんは、特に、歌手になりたいと思っていたわけではないものの、お父さんの喜ぶ顔が見たくて、昼間は学校に行きつつ、夜間は音楽学校に通われると、

1961年、15歳の時には、お父さんが応募した「第12回コロムビア全国歌謡コンクール」で、見事、全国大会第2位(準優勝)に。

(水前寺さんは、準優勝したことよりも景品がうれしかったそうです♪)

すると、このコンクールで審査員を務めていた、作詞家の星野哲朗さんに、「練習においで」と声をかけてもらい、気楽な気持ちで、星野さんに師事されたのですが・・・

その後、「コロムビアレコード」の研究生として、レッスンに励まれるも、レコーディングした11曲はすべてお蔵入りとなるなど、なかなかデビュー出来ず。

そこで、この状況に業を煮やした水前寺さんがクラウンレコードに移籍されると、1964年10月、ついに、12曲目のレコーディングとなった「涙を抱いた渡り鳥」でようやく念願のレコードデビューを果たされたのでした。


「涙を抱いた渡り鳥」

(翌1965年には、いきなり「第16回NHK紅白歌合戦」に初出場を果たされています)

ちなみに、このデビューは、水前寺さんのお父さんが、

なんで娘はデビューできないんだ

と何度もレコード会社に掛け合った末のデビューで、

デビュー曲「涙を抱いた渡り鳥」も、もともとは、畠山みどりさんが歌う予定だった「袴を履いた渡り鳥」を畠山さんのキーのまま、タイトルだけを変更した曲だったそうなので、お父さんの粘りが功を奏したようですね。

「いっぽんどっこの唄」がミリオンセラー

とはいえ、その後、

1964年12月「娘田原坂」
1965年2月「花の都の渡り鳥」
     5月「女黒田節」
     7月「娘ざかり」
     8月「女ごころの流し唄」
     10月「人生舞台」
     11月「ゆさぶりどっこの唄」
1966年3月「その一言を待ってます」
     4月「女三四郎」
     5月「俺は天下のご意見番」
     6月「人情一枚」

と、怒涛のごとく次々とシングルをリリースするも、あまり、パッとしなかった水前寺さんですが、

1966年11月にリリースした13枚目のシングル「いっぽんどっこの唄」が、ついに、100万枚を売り上げる大ヒット。


「いっぽんどっこの唄」

また、翌1967年には、「座頭市鉄火旅」の旅回り一座の娘、お春役で映画デビューも果たされ、劇中、この曲の1番と2番を座頭市(勝新太郎さん)に聴かせる形で披露されたのでした。


「座頭市鉄火旅」より。水前寺さんと勝新太郎さん。

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「三百六十五歩のマーチ」が大ヒット

そして、その後は、これといったヒットが出なかったものの、1968年11月、23枚目のシングル「三百六十五歩のマーチ」をリリースすると、一日一歩ずつ歩み続ける人生を励ますマーチ(行進曲)調のこの曲は、当時、高度経済成長の真っ只中にあった日本の時流に乗り、100万枚を越える大ヒットを記録。


「三百六十五歩のマーチ」

実は、水前寺さんは、この曲を星野さんから提供された際、着流しスタイルと「今日から男になれ」と命じられたそうで、幼い頃から女剣劇に憧れていこともあり、最初は「カッコいいじゃん!」と思われたそうですが、

実際、曲を聴いてみると、演歌ではなくマーチで、英語の「ワントゥー ワントゥー」という歌詞があるこの曲に、

演歌歌手である自分がマーチを歌うなんて、とんでもない!

と、レコーディングを強く拒否。

それでも説得され、最終的には、演歌歌手としての人生の終わりを感じつつ、

「あなたのつけた足跡にゃ きれいな花が咲くでしょう」

という部分には、こぶしを入れ、

「ワントゥー ワントゥー」

という英語部分は、演歌調に「ワンツー ワンツー」と歌い上げるなど、演歌歌手としての抵抗を見せてレコーディングを終え、いざ、リリースすると、自分の予想とは裏腹に大ヒット。

また、ファンからの熱い手紙に、この歌への気持ちが大きく変わっていき、さらには、星野さんが、晩年、

三百六十五歩のマーチは自分の原点だ

と話してくれたことから、

現在では、

最初は歌いたくなかった曲が、今では誇りです

と、語られるほどに、水前寺さんにとって大切な曲となったのでした。

「水前寺清子のありがとうほか出演ドラマ映画は?病気で入院していた?」に続く

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