ポップスから演歌に転向し、見事大成功を収められた森進一(もり しんいち)さんですが、プライベートでは、事実無根の婚約不履行で訴えられ、それが原因で母親が自殺、また、2度の離婚と、順調と言えるものではありませんでした。
「森進一の若い頃はポップスから演歌に転向!デビューからのヒット曲や経歴は?」からの続き
事実無根の婚約不履行で訴えられる
歌手として大成功を収め、ついに、鹿児島から家族を東京に呼び寄せ、家族とともに暮らし始めた森進一さんですが、
1972年、森進一さんの熱狂的ファンの女性Aさん(26歳)から、突然、「婚約不履行」「未成年者略取」で告訴されます。
そして、その気になる内容はというと、
最初の出会いは63年夏。Iさんは仕事を探しに大阪を訪れ、ゲイバーの2階で眠っているうちに森に犯された。
以降、東京、大阪、鹿児島であいびきを重ねて、66年1月に妊娠。
同年8月、鹿児島の森の実家で男の子を産んだが、3日後に下関に帰り、その後の消息はわからない。
69年9月にも森との間の子を流産――。
というもの。
しかし、裁判に出廷された森進一さんは、Aさんと会ったこともなければ、手紙を書いたことも、家に行ったこともなく、この日が初対面であり、訴状に書かれているのは、森進一さんにとって身に覚えのないことばかりだと証言。
つまり、これらの話はすべて、森進一さんの熱狂的なファンAさんの虚言だったのです。
母親がガス自殺
そして、そもそも、Aさんが、このような妄想を抱くようになったのは、1970年に、Aさんが、鹿児島の病院に「バセドー病」で入院していた、森進一さんのお母さんをお見舞いに行き、以来、森進一さんのお母さんがAさんに気を許して、交流が始まったことがきっかけで、
そのうち、Aさんは、森進一さん本人とも、交際している気分になっていったということだそうですが、
森進一さんが出廷してから約1ヶ月後の、1973年2月24日早朝、なんと、森進一さんのお母さんが、自分のせいで息子に迷惑をかけてしまったことを苦に、東京の自宅でガス自殺してしまったのでした。
ちなみに、お母さんの死から半年後、森進一さんの全面勝訴となっているのですが、
森進一さんは、2007年の週刊誌の取材に対し、
おふくろは、もちろん、私の無実を信じながらも、
その騒動でひどく心を痛めて、精神的にかなり参っていました。
私への心配が命を縮めたのかと思うと、
済まなさと悔しさで、涙が止まりませんでした。
歌手になどならなければよかったと、
私は自分を責めたものでした。
と、苦しい胸の内を明かされています。
襟裳岬が大ヒット
その後、森進一さんは、歌手をやっている意味を見いだせなくなり、この先どう生きていけばいいのかと、悶々とする日々を過ごしていたそうですが、
フォークソング全盛期の黄金コンビ、岡本おさみさん(作詞)と吉田拓郎さん(作曲)が作った「襟裳岬」という曲に出会うと、
この曲の3番目の歌詞、
日々の暮らしは、いやでもやってくるけど、静かに笑ってしまおう
に、強く心を打たれたそうです。
ただ、シングル化を希望するも、ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフたちは、
フォークソングのイメージは森に合わない
こんな字余りのような曲は森に似合わない
と、猛反対されたそうで(B面扱い)、
森進一さんは、周囲の反対を押し切り、1974年、「襟裳岬」を29枚目のシングルとして、両A面(1枚のディスクに収録された2つの曲を同時にプロモーション)で発売されると、100万枚を売り上げる大ヒットを記録。
「襟裳岬」
「第16回日本レコード大賞」「第5回日本歌謡大賞」ほか、数多くの音楽賞を獲得するほか、この年の年末には、「第25回NHK紅白歌合戦」で、自身初の大トリ(紅組白組通しての最後の曲)も務めたのでした。
(「第5回日本歌謡大賞」では、駆けつけた妹の満寿美さんを抱き寄せ、万感の思いで歌唱しています)
ちなみに、以降、森進一さんは、その後も、谷村新司さん、細野晴臣さん、松山千春さん、BOROさん、坂井泉水さん(ZARD)、小室哲哉さんなど、固定観念にとらわれず、様々なジャンルの歌を歌唱しています。
大原麗子と結婚
そんな森進一さんの気になるプライベートですが、
森進一さんは、1980年6月、女優の大原麗子さんと結婚しています。
「女性自身(1980年7月17日号)」より。
二人はデビュー当時から知り合いだったそうですが、結婚の話が出た時には、結婚後、家庭に入ってほしい森進一さんと、仕事を続けたい大原麗子さんの間で意識のズレがあったそうで、
森進一さんが、
先のことを考えれば、いつかは主役を譲らなきゃいけない。それを考えて努力してくれるなら、結婚できるかも。
と、話したところ、
大原麗子さんが、
努力する
と言い、結婚となったそうですが・・・
大原麗子と離婚
やはり、大原麗子さんが、女優を捨てられなかったことから、1984年には離婚。
森進一さんは、当時のことを振り返り、
男が2人いた
と、語っています。
森昌子と再婚!息子は?
その後、森進一さんは、自身が立ち上げた福祉活動「じゃがいもの会」のチャリティコンサートがきっかけで、森昌子さんと知り合うと、交際に発展し、1986年、1年半の交際期間を経て結婚。
結婚後は、森進一さんのかねてからの希望で、森昌子さんは芸能界を引退して家庭に入り、
1988年には、長男の森内貴寛(もりうち たかひろ)さん(現・「ONE OK ROCK」のボーカル)、ついで、次男(一般人)、そして、1994年には、三男の森内寛樹(もりうち ひろき)さん(現・「MY FIRST STORY」のボーカル)と、3人の男の子が誕生しています。
森昌子と離婚(2度目の離婚)
しかし、2001年、森昌子さんが、「第52回NHK紅白歌合戦」に16年ぶりに出場すると、これをきっかけに、森進一さんの意向で、
夫婦共演の「ジョイントコンサート」を頻繁に開催するようになり、
主婦業と仕事の両立で心身に大きな負担がかかった森昌子さんと、森進一さんの間には、大きな溝ができたといいます。
そして、ついに、2005年2月1日の夜、森昌子さんがストレスから自宅で過呼吸の発作を起こして、意識を失って倒れ、緊急入院(集中治療室)すると、翌日の2月2日、一般病棟に移り、森進一さんの意向でその翌日の2月2日には退院するのですが、
その2ヶ月後の4月には、二人は離婚を発表したのでした。
森昌子との離婚理由は?
実は、この退院、
医師からは、
最低でも、あと2、3日は入院が必要
と、言われていたにもかかわらず、
森進一さんは、翌日、森昌子さんに、
明日、退院しろ
と、殺気めいた態度で命じていたといいます。
(森進一さんは、記者会見で明日退院と発表していました)
というのも、
森進一さんが、かねてから友人と約束していた、ハワイでのゴルフに、入院中の森昌子さんを放って行くと、
マスコミから悪者扱いされる恐れがあったため
ということだったそうで、
それまでのストレスと相まって、我慢の限界に達した森昌子さんが、森進一さんに離婚を持ちかけると、森進一さんは、慰謝料0円ならばと、離婚が成立したのだそうです。
さて、いかがでしたでしょうか?
森進一さんの、
- 森進一の生い立ちは?少年時代は父親が蒸発し極貧!中卒で家計を支えていた!
- 年齢は?出身は?身長は?学歴は?
- 本名は?芸名の由来は?
- 少年時代は父親が蒸発し極貧
- 中卒で家計を支えていた
- のど自慢番組「リズム歌合戦」で優勝しスカウトされる
- 森進一の若い頃はポップスから演歌に転向!デビューからのヒット曲や経歴は?
- ポップス系歌手を目指すも、かすれ声がネックになっていた
- デビュー曲「女のためいき」が大ヒット
- 2ndシングルから5thシングルまでは全く売れなかった
- 「命かれても」「花と蝶」がミリオンセラー
- 「港町ブルース」が自身最大の売上120万枚を記録
- 「おふくろさん」が大ヒット
- 森進一の元嫁は大原麗子と森昌子!離婚原因は?息子は?襟裳岬?
- 事実無根の婚約不履行で訴えられる
- 母親がガス自殺
- 襟裳岬が大ヒット
- 大原麗子と結婚
- 大原麗子と離婚
- 森昌子と再婚!息子は?
- 森昌子と離婚(2度目の離婚)
- 森昌子との離婚理由は?
について、ご紹介しました。
「母親、妹、弟に、人並みの暮らしをさせてあげたい」
との一心で歌手となったことから、それまでの辛く悲しい人生がうまく絡み、スターダムに登り詰めた森進一さんですが、
同じ家族でも、2人の奥さんとうまくいかなかったのは、やはり、血の繋がりの有無なのかもしれませんね。
「森進一の若い頃は?昔ポップス歌手志望だった!デビューは?おふくろさん他ヒット曲は?」
ポップス系の歌手としてデビューする予定が、かすれ声のため、一転、演歌歌手としてデビューすることとなり、1966年、「女のためいき」でデビューすると、たちまち大ヒットし、 甘いマスクとかすれ声が多くの人々を引きつけ、以降、 …