1972年、フォーク・グループ「三輪車」でデビューすると、山下達郎さん、村松邦男さんらとのバンド「シュガー・ベイブ」での活動を経て、ソロに転身し、「都会」「黒のクレール」「夏に恋する女たち」などの楽曲が高く評価された、大貫妙子(おおぬき たえこ)さん。

そんな大貫妙子さんは、幼い頃は、ステレオの前に陣取り、1日中レコードを聴いているような音楽に恵まれた環境で育ったそうですが、小学生の時、お父さんの仕事が原因で経済的に困窮すると、すべてのレコードを失ったといいます。

それでも音楽への情熱は持ち続けつつも、当初は音楽で食べていけるとは思っておらず、将来は陶芸家になりたいと、高校卒業後は、御茶ノ水美術学校への進学を希望していたといいます。

今回は、大貫妙子さんの生い立ちをご紹介します。

大貫妙子

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大貫妙子のプロフィール

大貫妙子さんは、1953年11月28日生まれ、
東京都杉並区久我山の出身、

血液型はB型、

学歴は、
都立桜水商業高等学校(現在の都立杉並総合高等学校)卒業、

ちなみに、「大貫妙子」は本名です。

大貫妙子が幼い頃は裕福な家庭で1日中音楽を聴いて育っていた

大貫妙子さんは、特別攻撃隊(特攻隊)隊員で、戦後は建設機械のリース会社を開業していたお父さんの大貫健一郎さんのもと、3人きょうだい(兄と弟)の長女として誕生すると、

幼い頃は、家にあったステレオの前に陣取り、お母さんが好きだったクラシック音楽、お父さんが持っていた軍歌、岸洋子さんの「夜明けのうた」など子供のための歌のソノシートを、飽きもせず1日中聴いていたそうです。

(大貫妙子さんは、小学3年生から4年生くらいまで、音楽ならジャンルを問わず何でも聴いていたそうです)

また、ステレオの前から離れず、「くるみ割り人形」をかけながらクルクル回っていると、お母さんがクラシックバレエとピアノを習わせてくれるなど、裕福な家庭で育ったそうです。

大貫妙子は小学4年生の時に父親の仕事で経済的に困窮していた

そんな、経済的にも音楽的にも恵まれた環境で育っていた大貫妙子さんですが、小学4年生の時には、お父さんの仕事が理由で一家が経済的に困窮し、引っ越しを余儀なくされると、レコードはもちろんのこと、全てなくなってしまったそうです。

(大貫妙子さんは、この時、ピアノもやめざるを得なくなったそうですが、歌も習っていたピアノの先生は、お母さんに「お嬢さんは声がきれいだから歌を続けさせてあげてください」と言って別れを惜しんでくれたそうです)

それでも、大貫妙子さんは音楽が好きだったことから、友達の家に遊びに行くと、その友達のお姉さんが聴いていたFMが部屋から流れてくるのをワクワクしながら廊下で聴いていたそうです。

大貫妙子は中学に入学する頃には兄のレコードを聴いていた

そして、中学に入る頃には、(自分ではレコードを買えなかったことから)6歳年上のお兄さんが買ったレコードを聴いていたそうで、

大貫妙子さんは、

「マシュ・ケ・ナダ」が入っている1966年の『セルジオ・メンデス&ブラジル’66』なんて、むちゃくちゃカッコよくて、またまたステレオ独占です。

今もそのLP持っていますがホントに音がいい!それとニーナ・シモンとか、兄の持っていたものはジャズ系の渋いレコードが多かったです。

と、語っています。

大貫妙子が中学生の時はバスケットボール部に所属していた

そんな大貫妙子さんは、中学生の時には、ビートルズをコピーし、文化祭などで歌ったりしていたそうですが、

周りでギターを弾いていた人は数人程度しかいなかったほか、洋楽に興味を示す子もあまりおらず、バスケットボール部に所属していたそうです。

(ポジションはセンターで、試合にはいつもスタメンで出場していたそうです)

大貫妙子は高校時代には「村八分」「THE M」などの日本のロックバンドや映画「ウッドストック」に影響を受けていた

それでも、高校進学後は、本格的に音楽活動を始めたそうで、他校の人とバンドを組み、「フィフス・ディメンション」や「ママス&パパス」などのコピーをしたそうです。

(本当は、「村八分」や「THE M」など、日本のロックバンドに影響を受けていたそうです)

そして、1970年、16歳の頃には、映画「ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間」を観て、男と女がみんな裸で池に入るなど、あまりにも自由なアメリカンカルチャーを知り、これまでずっと真面目だった大貫妙子さんは、衝撃を受けたのだそうです。

(「ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間」は、1969年8月15日から3日間にわたって開催された野外ロックフェス「ウッドストック・フェスティバル」の模様を記録したドキュメンタリーです)

大貫妙子は高校卒業後は陶芸家を目指し御茶ノ水美術学校への進学を考えていた

とはいえ、この頃はまだ、自分が音楽で食べていけるとは思っていなかったことから、音楽の道には進まず、陶芸家を目指し、御茶ノ水美術学校への進学を希望していたそうで、

大貫妙子さんは、

一生続けられて しかも 人に会わずにできる仕事 というのにつきたいと当時考えていたんです。その頃から音楽が一番好きだったけど、音楽が職業になるなんて 夢にも考えられない時代だったから。

だったら二番目に好きな道を選ぼう。伊万里のように洗練に洗練を重ねて、それを受け継いでいく 伝統工芸の世界に進みたいと思っていた。同じ陶芸でも 新作によくある ごてごてしたものは嫌いなんですよ(笑)

と、語っています。

大貫妙子は高校卒業後はデッサンの予備校に通い始めるも持病の肩こりが悪化し陶芸家の道を断念していた

こうして、大貫妙子さんは、陶芸家になるべく御茶ノ水美術学校進学を目指し、デッサンの予備校に通い始めたそうで、日夜、デッサンに取り組んでいたそうですが、

重い荷物を持ってラッシュに揉まれながらの通学や、長時間同じ姿勢で作業をしていたことで無理がたたって、持病の肩こりが悪化し、首が回らなくなったそうで、

自分には体質的に陶芸を続けることが難しいと判断し、陶芸の道を断念したのだそうです。

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大貫妙子は喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしつつレコードブースでギターの弾き語りをするようになっていた

そんな中、趣味で続けていた音楽が心の支えとなり、一度はあきらめた音楽の道に進むことにしたそうで、五反田の喫茶店でウエイトレスのアルバイトをしながら、店のレコードブースでギターの弾き語りなども行うようになったのだそうです。

ちなみに、お客さんは近くの競馬場の常連客ばかりで、店内は、競馬新聞が広げられ、煙草の煙がくすぶっている状態で、拍手どころか誰も歌を聴いてくれなかったそうですが、

大貫妙子さんは、ウエイトレスの仕事をするよりも楽しかったそうです。

「大貫妙子の若い頃は三輪車や山下達郎とシュガーベイブ!代表曲やアルバムを時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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