1980年にアルバム「ROMANTIQUE」がヒットすると、以降、ヨーロピアンサウンドを確立した、大貫妙子(おおぬき たえこ)さん。

そんな大貫妙子さんのプライベートはどのようなものだったのでしょうか。

今回は、大貫妙子さんは結婚しているのか、また、元カレ(過去の彼氏)の坂本龍一さんとの知られざるエピソードについてもご紹介します。

大貫妙子

「大貫妙子の若い頃は三輪車や山下達郎とシュガーベイブ!代表曲やアルバムを時系列まとめ!」からの続き

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大貫妙子の夫は?結婚している?

大貫妙子さんは過去に一度も結婚したことがなく、現在も独身です。

大貫妙子さんは、結婚しなかった理由について明かしていないため、詳しいことは不明ですが、音楽一筋だったからかもしれません。

大貫妙子の元カレ・坂本龍一との馴れ初めは?

ただ、大貫妙子さんは、過去には、ミュージシャンの坂本龍一さんと交際していたことがあったようです。

大貫妙子さんは、1973年4月から1976年3月まで、「シュガー・ベイブ」で活動していたのですが、

坂本龍一さんは、その間の1974年秋、フォークシンガー・友部正人さんのバックでピアノを弾くようになり、プロとしての活動を始めるようになったそうで、

その後、様々なミュージシャンと交流を深めるようになり、「シュガー・ベイブ」ともライブハウスや他のアーティストのレコーディング現場で顔を合わせていたそうで、

この頃、大貫妙子さんと坂本龍一さんは知り合ったのではないかと考えられています。

ちなみに、1975年12月、新宿厚生年金会館小ホールで「シュガー・ベイブ」のクリスマスコンサートが行われた際には、大貫妙子さんのソロコーナーがあったそうですが、「からっぽの椅子」という曲のピアノ伴奏をしたのが坂本龍一さんだったそうで、

音楽プロデューサーの牧村憲一さんは、坂本龍一さんが他界された後、

その日の坂本のピアノは煌(きら)びやかだった。それまでの芝居やフォーク・シンガーのサポートとはまるで違う、別の世界を楽しむかのようだった

と、寄稿文に記しています。

大貫妙子は坂本龍一とコタツがきっかけで親しくなっていた

さておき、1976年頃、大貫妙子さんは、当時の所属事務所に顔を出した際、同じビルにあった音響関係の会社にも立ち寄ったそうですが、

部屋にはコタツに入っていた坂本龍一さんがおり、大貫妙子さんもコタツに入って話し込んだそうで、このことがきっかけで坂本龍一さんと親しくなったそうです。

そして、ほどなくして、大貫妙子さんと坂本龍一さんは同棲を始めたそうで、

大貫妙子さんは、インタビューで、

(坂本龍一さんが)ある日、私の家に来て、そのままずっといた、っていう感じです(笑)。うちのLP棚を片っ端から聴いて、二人で盛り上がる毎日。当時の、ウェザー・リポート、ブレッカー・ブラザーズ、マリーナ・ショウ、卜ッド・ラングレン、ダニー・ハサウェイ・・・

と、語っています。

大貫妙子は坂本龍一の存在が音楽面でも精神面でも大きな支えとなっていた

その後、1976年3月、「シュガー・ベイブ」が解散し、同年9月、大貫妙子さんは、初のソロアルバム「Grey Skies」をリリースしているのですが、仕事面での不安は大きかったそうで、

そんな中、坂本龍一さんが音楽的にも精神的にも支えてくれたそうで、

大貫妙子さんは、インタビューで、

シュガー・ベイブを離れて一人になったら、全く自信なかったのね。もう、このままやめるんじゃないかと思ったし…。でも、まわりの勧めにより、続けていこうと。

いつも、山下くんの影にかくれてピアノを弾いてただけの存在だったけど、そんな私にも何か可能性を感じてくれた人がいたんですね。話しを進めてくれたのは、後に『ロマンティーク』『アヴァンチュール』をプロデュースしてくださった牧村憲二さんです。そういう意味ではまわりの人に恵まれていた。(中略)

それでも、まだソロ・アルバム『グレイ・スカイズ』を出した時は半信半疑でした。これから、どうやっていくかも具体的に考えられませんでした。

とにかく、これからは自分でやっていこうと思った時に、やっぱり音楽的パートナーが必要だった。今までは山下くんというパートナーがいたわけでしよ。

その時にいろいろな人とソロ・アルバムで仕事した中で、坂本龍一さんとの出会いが、ものすごく自分にとって大きかったわけですね。

まだ彼はそんなに有名ではなかったけれど、とても才能のある人だと思ったし、もう芽生え始めていましたから。その頃、新しいシンセサイザーが出だした頃で、いち早く取り入れて使っていました。随分、勉強熱心だったし、研究熱心だったから。

『グレイ・スカイズ』の中でやってるんだけど、彼のアレンジで。坂本くんも、最初は私の仕事を通じて、いろいろ試しながらやってたようなところがある。

でも、自分のやりたいものとは、すごく近いところを持ってたのね、最初っから。私のメロディーというのは、すごく器楽的なので、どこかクラッシックの要素が強く、その点、坂本くんは基本的なところで、よく理解してくれました。

と、語っています。

(大貫妙子さんは、プロデューサーの牧村憲一さんのアドバイスで、音楽性をアメリカンポップスからフレンチスタイルに路線を変更しているのですが、その際、単なるモノマネにならないよう、坂本龍一さんの協力を仰いだそうです。また、坂本龍一さんも自らの音楽的知識や編曲などで見事に応えてくれたのだそうです)

大貫妙子は2枚目のアルバム「SUNSHOWER」を坂本龍一と2人仲良く好き放題に制作していた

その後、大貫妙子さんは、1977年には、2枚目のアルバム「SUNSHOWER」をリリースしているのですが、坂本龍一さんがこのアルバムの全曲の編曲とディレクションを担当してくれたそうで、

セールス的にはパッとしなかったものの、坂本龍一さんと2人だけで仲良く気ままに作った作品だったといいます。

(この頃、レコード会社が売り出しにあまり力を入れてくれなかったうえ、当時所属していた事務所が解散したことから、大貫妙子さんは坂本龍一さんと2人だけになり、レコードが売れる売れない関係なく、好きなように作ってしまえ、とばかりに作ったアルバムだったそうです)

大貫妙子と坂本龍一の破局理由は?

しかし、そんな2人の関係も、1978年頃、坂本龍一さんが家を出ていく形で終わりを迎えたそうで、

大貫妙子さんは、坂本龍一さんとの別れについて、

(坂本龍一さんがYMOを結成して)初めてのソロアルバムだし、アルマーニのスーツを着たのがすごく嬉しかったみたいで。「どうよ」とか言って(笑)。

彼は学生運動も長くやっていたし、アンダーグラウンドな音楽もやっていて、チャラチャラしたものなんて!っていう、出会った頃はそういうものの塊だったんです。

女の子を見る時以外はキツイ顔をしていたし。そんな彼でも、アルマーニを着せられたら人生変わっちゃう(笑)まんざらでもないっていう。嬉しそうだった。仕事も増えてきていましたし。

それである日、出ていったような気がします。というか、サポートミュージシャンとしての仕事で、ツアーにも行くでしょ。当然、家にいないことが多くなりますよね。そのうちなんか来なくなりました。

別れるとかそんな話をした記憶もないですし。でも頼んでいる仕事はあるので、会うことはあるし。……そうですね、そんな感じでしょうか(笑)

と、語っています。

大貫妙子の楽曲「新しいシャツ」は坂本龍一との別れを歌ったもの?

ちなみに、大貫妙子さんは、坂本龍一さんと別れた後、「新しいシャツ」という楽曲を製作しており、

坂本龍一さんが、この曲について、自伝「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の中の「大貫妙子さんとの思い出」で、

今だから明かしますが、ぼくは20代前半の一時期、大貫さんと暮らしていました。しかし、別の相手ができたぼくは、その部屋を出ていってしまった。本当にひどいことをしてしまいました。

その後、大貫さんと親しくしていた母が、龍一がお世話になったと会いに行ったようです。「お母さまが、清楚な真珠のネックレスをくださいました」と、大貫さんから聞きました。

そして当時、大貫さんが発表したのが『新しいシャツ』で、この曲の歌詞を聴くとつい泣いてしまう。でも、泣いてしまうのは自分だけじゃなくて、ふたりのコンサートでぼくができるだけ感情を抑えながらこの曲のイントロを弾き始めると、なぜか客席からも嗚咽が聞こえるんですね。きっと、ぼくたちの昔の関係を知るひとがいたのでしょう。

と、綴っていることから、

坂本龍一さんとの別れを歌ったものだと考えられていたのですが、

大貫妙子さん本人はというと、

はい……。よく言われます。これ、坂本さんのことですかって。でも、これはただの歌詞です。だって〈新しいシャツに/袖をとおしながら/私を見つめてる/あなたの心が/今は/とてもよくわかる〉というような人ではありません。坂本さんは(笑)。

と、否定しています。

(「新しいシャツ」は、大貫妙子さん初のヒットとなったアルバム「ROMANTIQUE」(1980年)に収録されているのですが、このアルバムを製作するにあたり、大貫妙子さんは別れた坂本龍一さんの知識と編曲が必要になり、再び協力を仰いだそうです)

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大貫妙子が坂本龍一の死去に際し発表した追悼コメント

それから長い年月が経った2023年3月28日、坂本龍一さんはガンにより71歳で他界されているのですが、

その際、大貫妙子さんは、自身のツイッターで、

音楽を創る作業、作曲は身を削るような仕事です。自分の中にあるたくさんの感情、喜び哀しみを含む多様な事実と真正面から向き合わなければ、蓄積してこないものであって。

だからこそ、美しいメロディーは人の心を動かすのだと思います。そうした珠玉の作品を、私達に残してくれました

なにより、気骨ある人でした。坂本さんとご縁の深かった方のご好意により荼毘に付す前日、お会いすることが叶いました。肉体に宿ったすべての苦しみから解き放たれ本当に安らかで綺麗なお顔でした。家族に見守られ安心して旅立ったことを思います ありがとう坂本さん 大貫妙子

と、追悼のコメントを発表し、坂本龍一さんの死を悼んでいます。

お読みいただきありがとうございました

 

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