1973年、19歳の時、山下達郎さんらとロックバンド「シュガー・ベイブ」でレコードデビューすると、1976年には、アルバム「Grey Skies」でソロデビューした、大貫妙子(おおぬき たえこ)さん。
そんな大貫妙子さんは、しばらくは売れなかったのですが、1980年、路線変更したヨーロピアンサウンドのアルバム「ROMANTIQUE(ロマンティーク)」が初のヒットとなると、
翌年の1981年にリリースしたアルバム「AVENTURE(アヴァンチュール)」で自身のヨーロピアンサウンドを確立し、高く評価されました。
今回は、大貫妙子さんの、若い頃(レコードデビュー)から現在までの代表曲やアルバムほか経歴を時系列でご紹介します。
「大貫妙子の生い立ちは?幼少期から音楽に夢中も陶芸家を目指していた!」からの続き
大貫妙子は18歳の時に「三輪車」のメンバーとなっていた
1972年(18歳)頃、五反田の喫茶店で、ウエイトレスのアルバイトをしながら、店のレコードブースでギターの弾き語りなども行うようになっていたという大貫妙子さんは、
ある時、お店で歌う歌のレパートリーを増やそうと道玄坂のヤマハに譜面を買いに行ったそうですが、店の入口でたむろしていた男性2人組に、
音楽やってるんですか?
と、声をかけられたそうで、
(大貫妙子さんは、女性が楽器をやるのが珍しかった時代にギターを抱えていたそうです)
この男性2人組によると、レコード会社のワーナー・パイオニアでフォークバンドをやっていて、女性ヴォーカリストを探しているとのことだったそうです。
ただ、大貫妙子さんはナンパだろうと思ったそうですが、翌日、本当にワーナーに連れて行ってくれたそうで、担当ディレクターの前で歌を歌うと、見事、一発で合格。
こうして、大貫妙子さんは、フォークグループ「三輪車」のメンバーとなったのだそうです。
(将来のあてが何もない時期だったことから、思い切って参加することにしたのだそうです)
大貫妙子に合わないという理由で「三輪車」はあっけなく解散となっていた
その後、「三輪車」は矢野誠さんをプロデューサーに迎え、デビューが決まったそうですが、この頃、「赤い鳥」の「竹田の子守歌」がヒットしていたことから、「三輪車」もその路線を狙うことになったそうです。
ただ、大貫妙子さんは、その演歌調に違和感しかなかったそうで、地方のラジオ局やスーパーの開店記念イベントで演奏するなど、営業周りをしながら、コツコツと自分の感性で作曲を始めたのだそうです。
そんな中、大貫妙子さんのオリジナル曲を聴いた矢野誠さんが、「三輪車」は大貫妙子さんには合わないと判断し、「三輪車」はデビューを目前にひかえながら、あっけなく解散となってしまったのだそうです。
(大貫妙子さんに声をかけてきた2人組の男性は音楽業界を去って行ったそうです)
大貫妙子は19歳の時に山下達郎や村松邦男と共に「シュガー・ベイブ」を結成
その後、大貫妙子さんは、矢野誠さんに、
君に合う仲間がいるから
と言われ、
1972年秋、四谷のロック喫茶「ディスクチャート」に行くと、そこで、山下達郎さんと出会ったそうで、
年が明けた1973年、山下達郎さんに、
僕はバンドをやりたい。コーラスもやりたいから女性のボーカルもほしい。一緒にやらない?
と、誘われ、
1973年春、山下達郎さん、村松邦男さん、鰐川己久男さんと共に、ロックバンド「シュガー・ベイブ」を結成したそうです。
(ただ、大貫妙子さんは、山下達郎さんの意向でキーボードを担当したそうです)
「シュガー・ベイブ」第一期のメンバー。(左から)村松邦男さん、山下達郎さん、大貫妙子さん、野口明彦さん、鰐川己久男さん。
大貫妙子は21歳の時に「シュガー・ベイブ」でレコードデビューするも1年で解散していた
その後、「シュガー・ベイブ」は、1975年4月に、
- シングル「DOWNTOWN」
- アルバム「SONGS」
と、同時リリースし、レコードデビューするのですが・・・
翌年の1976年4月には、早くも解散しています。
ちなみに、「シュガー・ベイブ」の解散理由は、世間に評価されなかったことと、メンバー間の音楽の方向性の違いだとされていたのですが、
大貫妙子さんも、後に、
シュガー・ベイブは山下くんのバンドなので、私の好きなものではなかった
と、語っています。
大貫妙子は22歳の時にアルバム「Grey Skies(グレイ・スカイズ)」でソロデビューするも・・・
その後、大貫妙子さんは、同年(1976年)9月25日、22歳の時、アルバム「Grey Skies(グレイ・スカイズ)」でソロデビューするのですが、売上は思わしくなく、
翌年の1977年にも、アルバム「SUNSHOWER(サンシャワー)」をリリースするのですが、こちらも売上はパッとせず、レコード会社と契約を解除されてしまったのだそうです。
大貫妙子は23歳の時にアルバム「MIGNONNE(ミニヨン)」をリリースするもセールス的に失敗し音楽活動の縮小を余儀なくされていた
そして、1978年9月21日、24歳の時には、レコード会社を移籍し、プロデューサーの意向を取り入れた、アルバム「MIGNONNE(ミニヨン)」をリリースするのですが・・・
これもセールス的に失敗に終わってしまったそうで、
大貫妙子さんは、ついに音楽活動の縮小を余儀なくされ、以降、山下達郎さんのコンサートツアーにコーラスとして参加するほか、CMソングの作曲や他のアーティストへの楽曲提供などを行うようになったのだそうです。
大貫妙子が26歳の時にはアルバム「ROMANTIQUE(ロマンティーク)」が大ヒットを記録
そんな中、大貫妙子さんは、もう音楽を仕事にしていくのはやめようと考え始めていたそうですが、そんな矢先の1980年、プロデューサーの牧村憲一さんに、
ター坊(大貫妙子さん)はアメリカっぽいのをやってるけど、フランスっぽいのが合うんじゃないか
と、路線変更を勧められたそうで、
このアドバイスに従い、1980年7月21日、26歳の時、ヨーロピアンサウンドを意識したアルバム「ROMANTIQUE(ロマンティーク)」をリリースすると、初のヒットを記録したのだそうです。
大貫妙子は27歳の時にアルバム「AVENTURE(アヴァンチュール)」でヨーロピアンサウンドを確立していた
すると、1981年5月21日、27歳の時にリリースしたアルバム「AVENTURE(アヴァンチュール)」では、ヨーロピアンサウンドを確立し、高く評価されたのでした。
ちなみに、山下達郎さんも、このアルバム「AVENTURE(アヴァンチュール)」を絶賛しています。
大貫妙子のアルバム一覧
それでは、ここで、大貫妙子さんの主なアルバム(オリジナルアルバム)を時系列でご紹介しましょう。
- 1976年「Grey Skies」
- 1977年「SUNSHOWER」
- 1978年「MIGNONNE」
- 1980年「ROMANTIQUE」
- 1981年「AVENTURE」
- 1982年「Cliché」
- 1983年「SIGNIFIE」
- 1984年「カイエ」
- 1985年「copine」
- 1986年「Comin’ Soon」
- 1987年「A Slice of Life」
- 1988年「PURISSIMA」
- 1990年「NEW MOON」
- 1992年「DRAWING」
- 1993年「Shooting star in the blue sky」
- 1995年「TCHOU」
- 1997年「LUCY」
- 1999年「ATTRACTION」
- 2000年「ensemble」
- 2002年「note」
- 2005年「One Fine Day」
- 2010年「UTAU ⁄ A PROJECT OF TAEKO ONUKI & RYUICHI SAKAMOTO」
- 2015年「Tint」※「大貫妙子と小松亮太」名義
など、数多くのアルバムをリリースしています。
「大貫妙子の夫は?結婚してる?坂本龍一と交際していた!破局理由は?」に続く
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