1978年、ファーストアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」でデビューし、シングル「テクノポリス」「ライディーン」など、数多くのヒット曲を連発した「YMO」こと「イエロー・マジック・オーケストラ」。テクノポップと呼ばれるその斬新な音楽と独特のスタイルは、海外の聴衆から絶賛され、日本にも逆輸入されたのでした。
そんな「YMO」の結成から、
現在までを調べてみました!
「YMO」結成
1978年2月、坂本龍一さんと高橋幸宏さんは、
それぞれ以前から交流のあった細野晴臣さんの、
ソロアルバム「はらいそ」に収録される、
「ファム・ファタール」のレコーディングに参加され、
この時、初めて3人で顔を合わせられるのですが、
実は、この時、細野さんは、
ご自身の新しいグループの構想を温めており、
2人を自宅に招いて、3人でこたつを囲み、
おにぎりを食べながら、細野さんが、
新たなグループのコンセプトを伝えると、
2人は賛同。「YMO」が結成されたのでした。
ちなみに、その時、細野さんは、
マーティン・デニーの「ファイアー・クラッカー」を、
シンセサイザーを使用した、
エレクトリック・チャンキー・ディスコとしてアレンジし、
シングルを世界で400万枚売る。
というメモを書いたノートを、
2人に見せられたのだとか。
(その後、兼ねてより交流のあった松武秀樹さんが、
サポートメンバーとして参加され、シンセサイザーの自動演奏を担当。
「4人目のYMO」と呼ばれる存在となっています。)
デビュー~海外で人気!
こうして、1978年11月25日、「YMO」は、
デビューアルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」を、
「アルファレコード」よりリリース。
「イエロー・マジック・オーケストラ」
さらに、「アルファレコード」は、アメリカの、
「A&Mレコード」と業務提携していたことから、
翌年の1979年5月には、このアルバムを、
アメリカのマーケットに向けてリミックスした、
「Yellow Magic Orchestra」を「A&Mレコード」傘下の、
「ホライゾン・レコード」より発売すると、
その後、日本でもこのアメリカ盤が発売され、
オリコンチャート最高20位を記録しています。
(「ホライゾン・レコード」は「A&Mレコード」の副社長、
トミー・リピューマの自己レーベルだったそうです。)
また、その3ヶ月後の1979年8月2日~8月4日には、
ロックバンド「チューブス」の前座として、
ロサンゼルスの「グリークシアター」で公演すると、
前座であるにもかかわらず、
スタンディングオベーションを受けるなど絶賛され、
8月6日には、チャイナタウンにある、
ロッククラブ「マダム・ウォン」で単独ライブを行い、
次第に注目を集めるようになっていったのでした。
「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」でブレイク!
そして、1979年9月、2枚目のアルバム、
「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」をリリースすると、
オリコンチャート最高9位、セールスは、
トータル100万枚を超える大ヒットを記録。
「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」
(アルバムに収録されている、
「テクノポリス」と「ライディーン」は、
「YMO」のパブリックイメージになっています。)
また、翌月の10月には、初のワールドツアー、
「トランス・アトランティック・ツアー」が、
英ロンドンのヴェニュー(ライブハウス)公演からスタートすると、
ツアー中はテレビ・ラジオでも数多く特番が組まれ、
聴衆に媚(こび)を売ることなく、
黙々と奇抜な音楽を演奏をする姿や、
真っ赤な人民服のようなコスチュームなど、
その独特なスタイルが注目を集めたのでした。
逆輸入
そんな海外での「YMO」の人気は、
日本国内でも、逆輸入という形でブームとなり、
1980年2月には、
第1回ワールド・ツアーの模様が収められた、
3枚目のアルバム「パブリック・プレッシャー/公的抑圧」
が、初のオリコンチャート1位を獲得。
「YMO」は、ついに頂点を極めたのでした。
~「増殖」が大ヒットも、仲違いで解散?~CMを契機に再結成~に続く