高校在学中からスタジオミュージシャンとして活動を開始すると、大学在学中には「サディスティック・ミカ・バンド」で活動し、1978年には「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」を結成した、高橋幸宏(たかはし ゆきひろ)さん。
そんな高橋幸宏さんは、会社経営者のお父さんのもと誕生すると、裕福な家庭で何不自由なく育ったそうで、小学5年生の時には、お母さんにクリスマスプレゼントとしてドラムセットを買ってもらったことがきっかけで、ドラムを我流で始めたといいます。
今回は、高橋幸宏さんの幼少期(生い立ち)から高校時代までをご紹介します。
高橋幸宏のプロフィール
高橋幸宏さんは、1952年6月6日生まれ、
東京都目黒区の出身、
血液型はA型、
学歴は、
トキワ松学園小学校
⇒立教中学校(現・立教池袋中学校)
⇒立教高校(現・立教新座高校)
⇒武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン科中退
ちなみに、「高橋幸宏」は本名で、ソロ・デビューした1978年~1980年代前半までは「高橋ユキヒロ」名義を使用していたそうです。
また、お兄さんは、音楽プロデューサーで、「フィンガーズ」というバンドで活動していた、髙橋信之さん、お姉さんは、ファッションデザイナーの伊藤美恵さんです。
高橋幸宏の趣味は釣り
高橋幸宏さんの趣味は、釣りなのですが、母親が他界し、落ち込んでいた時、医師の勧めで釣りを始めると、やがてハマり、磯釣りを経て、フライフィッシングへと興味が変わっていったそうで、
底物のイシダイ釣りは40年以上、フライフィッシングは20年以上という長いキャリアを持ち、「東京鶴亀フィッシングクラブ」の会長を務めるまでになったといいます。
高橋幸宏は実家が裕福で幼少期~少年時代は何不自由なく育っていた
高橋幸宏さんは、会社経営者のお父さんのもと、5人きょうだいの末っ子として誕生すると、
(もともと)天皇陛下の運転手が建てたという自宅は、200坪もある広大な敷地の中に建てられていたほか、軽井沢にも別荘を所有する裕福な家庭で、何不自由なく育ったそうです。
高橋幸宏は小学生の時にすぐ上の兄の影響で音楽が好きになっていた
そんな高橋幸宏さんは、すぐ上のお兄さんが、1960年代半ばに日本中で巻き起こったエレキブームの頃、慶應義塾大学で「フィンガーズ」というバンドを組んで活動していたそうで、
楽しそうに音楽をするお兄さんたちの姿に憧れ、音楽が好きになったそうです。
(お兄さんのバンド「フィンガーズ」のメンバーには、ブリヂストンの創業者の孫や歌人の齋藤茂吉さんの孫などがいたそうで、グループサウンズのバンドとしてプロデビューも果たしたそうです)
高橋幸宏は小学生の時にすぐ上の兄の影響で映画も好きになっていた
また、高橋幸宏さんは、このお兄さんの影響で、アメリカ映画も好きになったそうで、
小学5年生の時には、「罠にかかったパパとママ」という映画に出演していた女の子(ヘイリー・ミルズさん)に憧れ、
ヘイリー・ミルズさんが歌っていた、「罠にかかったパパとママ」の主題歌「レッツ・ゲット・トゥゲザー」のレコードを買ったそうですが、
これが、高橋幸宏さんが人生で初めて買ったレコードだそうです。
高橋幸宏は小学5年生の時に母親にクリスマスプレゼントでドラムセットを買ってもらったことがきっかけでドラムを始めていた
そんな高橋幸宏さんは、小学5年生の時、お母さんに、クリスマスプレゼントでドラムセットを買ってもらったそうで、これをきっかけにドラムを叩くようになったそうですが、
(誰に習う訳でもなく、洋楽を聴き、ドラムの音を記憶して、叩いていたそうで、完全に我流だったそうです)
高橋幸宏さんは、ドラムという楽器を選んだ理由について、
当時日本のバンドではドラムが一番えらかったから。クレージー・キャッツのハナ肇さんや、ザ・スパイダースの田辺昭知さんなど、なぜかリーダーはドラムだったんです。
でもその後、ドラムなんかにするんじゃなかったと何度後悔したことか・・・。だって、ドラムじゃ、ギターやピアノみたいに女の子を口説けないでしょ?(笑)
若大将シリーズの加山雄三さんを見ては「いいよなぁ、ギター1本であんなかわいい子を口説けるなんて」と本気でうらやましがっていました。
と、語っています。
(一番最初は、「ベンチャーズ」の曲をお手本にしたそうです)
高橋幸宏は中学・高校時代にはダンスパーティーでドラムを演奏するようになっていた
その後、高橋幸宏さんは、中学生になると、
お兄さんから、
それだけ叩けるならフィンガーズでやらないか?
と、誘われたそうで、
時々、ダンスパーティーでドラムを演奏するようになり、
高校生の時には、同級生の東郷昌和さんらとバンド「ブッダス・ナルシーシー」を結成し、夏には、慶大生のダンスパーティーが開催される軽井沢の三笠ホテルで演奏したそうです。
(当時、夏になると、慶大の学生バンドが軽井沢の三笠ホテルに集まり、ひと夏中、ダンスパーティーを開催していたのだそうです)
高橋幸宏は高校生の時に細野晴臣の紹介でバンド「スカイ」(鈴木茂、林立夫、小原礼)と知り合っていた
そんな中、高橋幸宏さんは、バンド「ブッダス・ナルシーシー」で、慶大のバンド「バーンズ」と対バンをした際、「バーンズ」でベースを弾いていた細野晴臣さんと知り合うと、
高橋幸宏さんらと同じく高校生の、鈴木茂さん、林立夫さん、小原礼さんの3人からなる「スカイ」というバンドを紹介してもらったそうで、
以降、高橋幸宏さんは、「スカイ」の3人と、しばしば一緒にセッションするようになったそうです。
高橋幸宏は高校2年生の時にフォークバンド「ガロ」にサポートメンバーとして参加していた
そんな高橋幸宏さんは、高校在学中に、スタジオミュージシャンとして活動を開始すると、
1969年、高校2年生の時には、フォークバンド「ガロ」のサポートメンバーとして、小原礼さんと共に参加したそうですが、
「ガロ」は、1972年(高橋幸宏さん20歳の時)に「学生街の喫茶店」がヒットすると、以降、歌謡曲路線の曲を連発したことから、高橋幸宏さんは、これが合わず、小原礼さんと共に脱退したのだそうです。
高橋幸宏は高校時代に荒井由実(松任谷由実)とも一緒に演奏するようになっていた
また、高校2年生の時には、当時、中学3年生だった荒井由実(松任谷由実)さんがテレビ番組「ヤング720」に出演した際、高橋幸宏さんも出演し、荒井由実さんの曲「マホガニーの部屋」を演奏したといいます。
というのも、当時、荒井由実さんは、高橋幸宏さんのお兄さんのバンド「フィンガーズ」の追っかけをしていたそうで、高橋幸宏さんが学校から家に帰ると、よく荒井由実さんが遊びに来ていたそうで、
荒井由実さんは、高橋幸宏さんのお姉さんとも仲が良かったことから、そうこうするうち、一緒に演奏するようになったのだそうです。
(この「マホガニーの部屋」は、荒井由実さんが、デビュー後、歌詞を変えて、「翳りゆく部屋」としてリリースされています)
「【画像】高橋幸宏の若い頃(サディスティック・ミカ・バンド時代)は?アルバムは?」に続く
大学在学中の1972年、19歳の時、加藤和彦さんに誘われて「サディスティック・ミカ・バンド」に加入し、1975年には、人気絶頂だったイギリスのロックバンド「ロキシー・ミュージック」の全英ツアーに前座として帯同すると、海外 …