ロックグループ「バーンズ」「エイプリル・フール」での活動を経て、1969年には「はっぴいえんど」で活躍すると、1972年にバンド解散後は、作詞家として、太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」、寺尾聰さんの「ルビーの指環」など数々の名曲の作詞を手掛けた、松本隆(まつもと たかし)さん。
今回は、そんな松本隆さんの、デビューから「バーンズ」時代までの経歴を、細野晴臣さんとの出会いを交えて、時系列でまとめてみました。
「松本隆(作詞家)の生い立ちは?幼少期は本を乱読!中2でビートルズに衝撃を受けていた!」からの続き
松本隆は高校1年生の時にバンド「バーンズ」(Ⅰ期)を結成
中学3年生の時にバンド「バーバリアンズ」を結成するも、自然消滅してしまったという松本隆さんですが、
高校進学後は、イギリスのインストゥルメンタルバンド「ザ・シャドウズ」を真似て、新しいバンド「バーンズ」を結成すると、ドラムを担当し、高校1年生の間は練習に専念したそうです。
松本隆は高校2年生の時にドラムメーカー主催の全国コンテストに出場し優勝していた
そして、高校2年生の時には、かなり上達したことから、パーティーで演奏するバイトをするようになったそうですが、
ドラムメーカー主催の全国コンテストにも出場すると、見事、優勝したそうで、そのご褒美でテレビ朝日「ヤング720」に出演すると、レッド・ツェッペリンの「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」を演奏し、ドラムソロを披露したそうです。
松本隆は18歳の時にヤマハ主催の「第一回ライトミュージックコンテスト」の関東甲信越大会でロック部門の3位に輝いていた
また、1967年、18歳の時には、「バーンズ」は、ヤマハ主催の「第一回ライトミュージックコンテスト」の関東甲信越大会に出場し、ロック部門の第3位に輝いたそうですが、
実は、松本隆さんは、この頃、コピーに嫌気が差していたそうで、このコンテストで、フォーク部門で2位を獲得した、早川義夫さん率いる「ジャックス」の「からっぽの世界」という曲を聴き、自分たちの言葉で歌っていることに衝撃を受け、日本語によるロックの可能性を見出したそうです。
松本隆は大学進学後にベースの欠員を埋めるため面識のなかった細野晴臣を電話で勧誘していた
そんな松本隆さんは、高校卒業後は、大学に進学したそうですが、「バーンズ」のベースが勉強のため脱退することになったことから、
(松本隆さんは、高校を卒業したので、これからはディスコなどでバイト演奏して稼ぎたいと思いっていたそうです)、
ベースの欠員を埋めるため、面識はなかったものの、天才ベーシストとして評判だった、細野晴臣さんを電話で勧誘したそうです。
松本隆と細野晴臣の出会い
そして、翌日、原宿駅前の喫茶店で会うことになったそうで、松本隆さんは、勧誘する立場として、なめられないようにと虚勢を張り、ピン・ストライプのスーツにレイバンのサングラスをかけた姿で、遅れて待ち合わせ場所に行ったそうですが・・・
そこには、髭と髪を伸ばし、まだ20歳というのに、人生を悟りきったような風貌をした細野晴臣さんがいたそうで、松本隆さんは、まるでお爺さんだと思ったそうです。
そんな中、松本隆さんは、挨拶もそこそこにヤマハのコンテストに出て賞をもらったこと、テレビでドラムソロをやったことなど、自慢話を延々としてしまったそうですが、
細野晴臣さんは、(この自慢話に閉口していたそうですが、お金儲けができると思い)加入してくれることになったそうです。
その後、細野晴臣さんがベースの腕を披露してくれるということで、2人で原宿から渋谷まで一緒に歩き、道玄坂のヤマハまで行くと、細野晴臣さんは、楽器売場にあるベースでビートルズの「デイ・トリッパ―」を弾いたそうですが・・・3回やって3回ともつっかえてしまったそうです。
(細野晴臣さんも、いいところを見せようと難しい曲を選んでしまったのだそうです)
松本隆は細野晴臣に敬服していた
そんな中、松本隆さんは不安になり、細野晴臣さんに、オーディションをしたい旨と課題曲を告げ、後日、「バーンズ」のメンバーである伊藤剛光さんの自宅でオーディションを行ったそうですが、
(細野晴臣さんは、オーディションをする旨告げられた際、失礼なヤツだとムッとしたそうで、目にもの見せてやろうと練習したそうで)
今度は、細野晴臣さんは、前回とは打って変わり、指が生き物のように動いたほか、深い音楽知識も披露したそうで、松本隆さんを始めとするメンバーは、細野晴臣さんに敬服したのだそうです。
ちなみに、初対面の時には、細野晴臣さんになめられないようにと、ツッパっていた松本隆さんですが、この時、
細野晴臣さんに、
バンドをやるには髪が短すぎる
と、言われたそうで、
松本隆さんは、この言葉に従い、カツラをかぶることにしたそうです。
松本隆は大学1年生の時に細野晴臣を迎え入れ「バーンズ」(Ⅱ期)をスタートさせていた
こうして、細野晴臣さんをベースに迎え入れ、伊藤剛光さん(リードギター)、小山高志さん(ヴォーカル)と共に、「バーンズ」(Ⅱ期)を始動した松本隆さんは、青山や赤坂のディスコで、毎晩、朝まで演奏したのだそうです。
ちなみに、松本隆さんは、中学生の時から、人に頭を下げることが嫌いだったことから、自分はサラリーマンには向いていないと思っており、就職する気はなく、自由業しかないと思っていたそうですが、
それでも、細野晴臣さんに会わなければ、銀行か商社に就職していただろうと語っています。
松本隆は大学2年生の時に細野晴臣に詞を書くよう勧められていた
その後、松本隆さんは、大学2年生の時、細野晴臣さんに詞(しかも日本語)を書くよう勧められたそうで、松本隆さんは、詩は好きだったものの、音楽に乗せるとは思ってもみなかったことから、具体的にどうすればいいのか分からなかったそうですが、
細野晴臣さんに、「サイモン&ガーファンクル」を訳すことを提案され、辞書を片手に、その夜から「サウンド・オブ・サイレンス」に取り組んだそうです。
また、松本隆さんは、外国の歌詞では、ジョン・レノン、ボブ・ディラン、ポール・サイモンが好きだったそうですが、難解で、日本語にうまく置き換えられなかったことから、大学のクラスで英語が一番できる女の子に訳してもらったそうです。
そして、「ビートルズ」や「プロコル・ハルム」も聴き直すなど、詞の研究を重ねたのだそうです。
松本隆が大学2年生の時に「バーンズ」(Ⅱ期)は解散していた
こうして、松本隆さんは、詞の研究を重ねるかたわら、「バーンズ」としては、青山のディスコ「コッチ」に定期出演するようになるほか、慶應義塾大学のサークル「風林火山」にも所属していたことから、毎週土曜日開かれる軽井沢三笠ハウスでのダンスパーティーなど、あちこちで演奏したそうです。
そして、1968年秋には、「風林火山」主催のコンサートにトリで出演することになり、松本隆さんは細野晴臣さんとオリジナル曲5曲を作ったそうですが、
(これが松本隆さんの本格的な詞作となったそうです)
ほどなくして、ヴォーカルが弱かったことが理由で、「バーンズ」は解散したのだそうです。
ちなみに、この時のコンサートでは、バンド名を変えることが好きだった細野晴臣さんにより、「アンティック・マジシャンズ・アンノウンバンド」と名乗っていたそうです。
「【画像】松本隆(作詞家)の若い頃は?エイプリル・フール~はっぴいえんどの経歴を時系列まとめ!」に続く
1969年9月、20歳の時、ロックバンド「エイプリル・フール」のドラマーとしてデビューすると、解散後の1970年3月には、「はっぴいえんど」を結成し、ロックのサウンドに日本語の歌詞を乗せることにこだわったという、松本隆( …