主に1980年代には、近藤真彦さん、松田聖子さん、薬師丸ひろ子さん、斉藤由貴さん、中山美穂さんら、多数のアイドル、アーティストに詞を提供し、ヒットさせた、松本隆(まつもと たかし)さん。
ただ、当初は、他のミュージシャンの作詞兼アルバムプロデュースをしていたそうで、早々に情熱を失い、作詞家に転身していたといいます。
今回は、そんな松本隆さんの作詞家としての下積み時代の曲や経歴を時系列でまとめてみました。
「【画像】松本隆(作詞家)の若い頃は?エイプリル・フール~はっぴいえんどの経歴を時系列まとめ!」からの続き
松本隆は24歳の時に南佳孝のデビューアルバム「摩天楼のヒロイン」をプロデュースしていた
松本隆さんは、「はっぴいえんど」解散後、他のミュージシャンの作詞兼アルバムをプロデュースを始めたそうですが、南佳孝さんのデビューアルバム「摩天楼のヒロイン」(1973年発売)完成後、
南佳孝さんに、
(歌詞が松本隆の世界すぎて)これは8割くらい、松本さんのアルバムだ
と言われたそうで、
音楽プロデューサーとしての情熱を失い、早々にプロデュース業から身を引いたそうです。
(「摩天楼のヒロイン」は全11曲のうち10曲が松本隆さんによる作詞でした)
松本隆は24歳の時に作詞家に転身していた
そして、その後、松本隆さんは、作詞家に転身したそうですが、実は、事務所からのお給料は、半年も遅れて、なかなか入ってこない状態だったそうで、
「はっぴいえんど」の解散が決定した、ちょうど同じ時期に妊娠が分かった奥さんから、「もう無理」と言われ、生活のため、作詞家を目指すことにしたのだそうです。
とはいえ、松本隆さんは、
バンド時代から、いずれは専業の作詞家になりたいという思いは持っていました。ある音楽雑誌の編集長にその話をしたら、「そんな甘いもんじゃない」と言われましたけど、自信のようなものはあった。
それに、せっかく音楽の仕事をするなら、ど真ん中でやってみたいと思ったんです。いまはシンガーソングライターが全盛の時代ですが、当時の音楽業界で真ん中に行くには、作曲家、作詞家のどちらかになるしかなかったんです。
と、語っています。
松本隆は24歳の時に「チューリップ」のシングル「夏色のおもいで」を作詞していた
そんな中、「はっぴいえんど」解散後、3人くらいの友だちに、
作詞家になりたいんだけど、仕事があったら紹介してほしい
と、相談すると、
最初に来たのが、「チューリップ」の作詞の仕事だったそうで、
(「チューリップ」は「心の旅」がヒットしたものの、第2弾で悩んでいたそうです)
松本隆さんは、「夏色のおもいで」(1973年)の歌詞を、「チューリップ」に提供したのだそうです。
「夏色のおもいで」
松本隆が24歳~25歳の時は様々なジャンルの作詞を手掛けていた
その後、松本隆さんは、フォーク、ニューミュージック、歌謡曲、演歌、アイドルと、様々なジャンルの作詞を手掛けたそうですが、
当初は、まだ実績がなかったことから、仕事の依頼は競作(複数の作詞家に同一曲で作詞を発注し、その中からアルバム曲やシングル曲を選ぶ)が多かったそうです。
松本隆は25歳の時にアグネス・チャンに提供した「ポケットいっぱいの秘密」が大ヒット
そんな中、松本隆さんは、アグネス・チャンさんのアルバム「アグネスの小さな日記」に収録する曲を2曲書いたそうですが、
1974年6月10日、そのうちの1曲「ポケットいっぱいの秘密」という曲がシングルカットされると、大ヒットを記録したそうで、
このことがきっかけとなり、少しずつ、仕事が入るようになったのだそうです。
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「ポケットいっぱいの秘密」
1975年、太田裕美さんに提供したシングル「木綿のハンカチーフ」が150万枚を売り上げる大ヒットを記録すると、これがきっかけで、作詞家として注目されるようになり、以降、アイドルやアーティストに2,000曲以上もの詞を提供 …