昭和から平成にかけ、50年に渡って約3000曲を作曲し、誰でも1度は聴いたことがあるだろう名曲の数々を世に送り出した、稀代のヒットメーカー・筒美京平(つつみ きょうへい)さん。

今回は、そんな筒美京平さんの、会社員時代(下積み時代)の楽曲や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。

筒美京平

「筒美京平の生い立ちは?幼少期からピアノに才能も高校時代の不幸で断念していた!」からの続き

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筒美京平は22歳の時に「日本グラモフォン」で洋楽担当のディレクターとして海外の曲の買付けをしていた

1963年、22歳の時、学部で上から4番目という優秀な成績で青山学院大学経済学部を卒業し、「日本グラモフォン」に入社した筒美京平さんは、洋楽担当のディレクターとなると、

当初は、海外の曲の買付け(海外の曲で日本でもヒットしそうなものを選び、国内盤をリリースするという仕事)をしていたそうですが、

一方、アメリカの歌手、ジョニー・ティロットソンさんが、浜口庫之助さんが作った「涙くんさよなら」を日本語で歌うことになり、その制作も手掛けたそうです。

筒美京平は22歳頃に作詞家の橋本淳から勧められて作曲やアレンジを始めていた

また、筒美京平さんは、青山学院大学時代の先輩で作詞家の橋本淳さんから作曲やアレンジをすることを勧められ、橋本淳さんがアシスタントを務めていたすぎやまこういちさんに師事し、作曲の勉強を始めたそうで、

筒美京平さんは、

仕事が終わってから小平のすぎやまさんの家に行って、朝の3~4時まで曲を作ったりしながら、井の頭公園近くにある橋本さんの家で仮眠して仕事に行くというムチャな生活でしたよ。

当時のすぎやまさんは恐くてねー(笑)。もの凄く耳も良かったから人気歌手の方なんかも、すぎやまさんの前で歌う時はブルブルしてましたね。

すぎやまさんとの仕事はスタジオでぶっつけ本番。シングルのB面を「ちょっと、やってみるか」って言われて、譜面を作ってすぐにスタジオで録音。緊張しましたが、机の上でやるよりも勉強になりましたよ。

と、語っています。

(当時、すぎやまこういちさんは、フジテレビの音楽番組のディレクターをやりながら曲を書き、グループ・サウンズを売り出そうとしていたそうです)

筒美京平は26歳の時に「黄色いレモン」で作曲家デビューしていた

そんな筒美京平さんは、1966年、26歳の時には、初の市販曲「黄色いレモン」という曲で作曲家デビューを果たすのですが、この「黄色いレモン」は、作曲家として、すぎやまこういちさんの名前でリリースされています。

というのも、この時、筒美京平さんは、まだ会社員だったことから、副業をやるのは良くないとの理由で、師匠だったすぎやまこういちさんの名前を借りたのだそうです。

(自作のレコードに初めて針を落とした瞬間、興奮してまともに聴くことができなかったそうです)

そして、「黄色いレモン」は、1966年8月15日、すぎやまこういちさんの弟子だった藤浩一さん(後に子門真人に改名)による歌唱でレコードが発売されると、続いて、望月浩さん、泉健二さん、ガス・バッカスさん、リトル・パティさん、ドン・ホーらさんらの競作盤が発売されています。

筒美京平
藤浩一(子門真人)さんによる「黄色いレモン」

筒美京平は26歳の時に「ザ・サベージ」の「涙をふいて」を作曲していた

さらに、筒美京平さんは、この年(1966年)の12月15日に発売された「ザ・サベージ」の「この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNO.1」の収録曲「涙をふいて」の作曲もしています。

「この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNO.1」
「この手のひらに愛を/ザ・サベージ・アルバムNO.1」

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筒美京平は27歳の時に「日本グラモフォン」を退職し作曲家として独立していた

そんな筒美京平さんは、4年後の1967年には、様々なレコード会社や音楽出版社のスタッフに才能を認められてバックアップを受け、「日本グラモフォン」を退職して作曲家として独立しているのですが、

実は、筒美京平さんは、「日本グラモフォン」時代は、会社の仕事のほか、アルバイトとして膨大な数の編曲を受注していたといいます。

(当時は、国内外のヒット曲をインストゥルメンタルに仕立て直した”歌のない歌謡曲”と呼ばれる企画盤LPが頻繁にリリースされていたそうで、このような仕事を次々とこなしていたのだそうです)

「【画像】筒美京平の若い頃(ヒットメーカー時代)の代表曲や経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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