実家の家業が破産して、仕送りがストップしたことから、高校は中退し、一時は、新宿の駅などで寝泊まりされていた、美輪明宏(みわ あきひろ)さんですが、宝塚歌劇団出身の橘薫さんに紹介された、シャンソン喫茶「銀巴里」では、早速、大ヒット。しかし・・・

「美輪明宏の少年時代は?実家破産で高校中退も銀巴里と専属契約!」からの続き

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シャンソン「メケ・メケ」で大ブレイク

宝塚歌劇団出身の橘薫さんから、銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」を紹介された美輪さんは、早速、専属契約を交わし、国籍、年齢、性別不詳として売り出されると、

美輪さんいわく、

私が『銀巴里』で有名になったのは、ひとつは男でも女でもないという、お小姓ファッションです。日本には古くからそういう文化がありました。

平安時代のお稚児さんや、元禄時代の色若衆。徳川綱吉の側用人の柳沢吉保は、全国から美少年を集めて歌舞音曲を仕込み、女物の柄の振り袖を着せて諸大名をもてなしました。柳沢十六人衆です。

という伝統を復活させ、めきめきと頭角を現していき、

〈神武以来の美少年〉などとマスコミで喧伝されると、そのうち、レコードを出さないかという話になり、1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーすると、大ヒット。

美輪さんは、艶麗なルックスでシャンソンを歌い上げる姿が観客を魅了し、一躍ブレイクされたのでした。


「メケ・メケ」

「銀巴里」を文化の発信地に

ところで、美輪さんは、フランス・パリでは、文化人や芸術家が集まるカフェが文化の発信地になった、ということを本で読んで知っていたことから、「銀巴里」もそんな店にしたいと思っていたそうで、

そんな折、中村勘三郎さんが、店に作家の江戸川乱歩さんを連れてきたことがあり、いろいろ話をするうちに、面白い子だと気に入ってもらえたそうで、

その後すぐに、三島由紀夫さん、川端康成さん、岡本太郎さんほか、多くの文化人が来店するようになり、当初、美輪さんが望まれていたとおり、「銀巴里」も知的な議論を楽しむことができる店になっていったそうです。


「銀巴里」で歌唱する美輪さん。

大人気から一転、激しいバッシング

さて、「メケ・メケ」で大ヒットした美輪さんは、三島由紀夫さんから「天上界の美」と絶賛されるほか、マスコミからも、「神武以来の美少年」「シスターボーイ」と称されたのですが・・・

その後、自身が同性愛者であることを公表されると、中性的ファッションや、美輪さんが自ら和訳した生々しいシャンソンが、当時の保守的だった世間から受け入れられずに、人気が急降下。

(もともと、日本では、シャンソンは、「蝶よ花よ、星よ月よ」といった美しいイメージで歌われていました。)

さらには、

丸山明宏を芸能界から追放せよ

などといった、美輪さんを批判する記事が全国紙に掲載されるほか、「男の腐ったみたいなゲイボーイ」と罵倒され、見知らぬ人から石やビール瓶を投げつけられるようになってしまいます。

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作詞作曲を始めるもさらにドツボ

また、九州の炭鉱町に地方営業に行かれた際には、何か手違いがあったのか、会場がおさえられず、急遽、公民館が崩れかかったような場所を用意されたそうですが、

舞台に立つと、板張りの上にござを敷いて、老若男女のお客さんがぎっしりと座っているのが見え、さらには、シワや爪にまで炭塵が染み込んで真っ黒なお客さんの姿がよく見え、

それに引き換え、ひらひらとして格好でシャンソンを歌っている自分が申し訳なくて、恥ずかしくて、こういう人たちを慰め、励ます歌はないだろうかと考え始めたそうで、

外国には、労働歌や反戦歌など、様々なジャンルの歌があるのに、日本には歌謡曲しかない現状に、

じゃあ、自分でつくって、自分で歌おう

と、作詞・作曲を開始。

炭鉱町の子どもたちを題材にした「ボタ山の星」、反戦歌「ふるさとの空の下に」などを作り、華やかな衣裳を封印して、地味な格好で歌い始めたそうですが・・・

その途端、まるで潮が引くように周りからマスコミがいなくなり、世間から見向きもされなくなってしまったそうで、

地方のキャバレーで歌っていても、

酒がまずくなる

と、おつまみが飛んでくるなど、全く仕事がなくなってしまったのでした。

「美輪明宏のヨイトマケの唄は昔放送禁止だった?寺山修司作品で俳優デビューも!」に続く

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