10歳の時に原爆を体験し、地獄絵図を目の当たりされた、美輪明宏(みわ あきひろ)さんですが、終戦後は、ボーイソプラノに感動すると、小学生でピアノと声楽のレッスンを受けさせてもらい、中学ではシャンソンを独学、高校になると上京するなど、裕福な実家をバックに、音楽の世界に邁進されます。

「美輪明宏は子供の頃に長崎で原爆に被爆していた!」からの続き

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終戦後も目を覆う惨状を目の当たりに

8月15日、玉音放送(天皇の肉声による放送)を聞き、戦争が終わったことを知った美輪さんは、爆心地の近くの「山里町(現・平和町)」というところに住んでいたおばあさんたちが心配で、いてもたってもいられなくなり、家族の静止を振り切って一人でおばあさんのもとへ向かったのですが・・・

かつては、天主堂が立ち、お花畑が広がる、風情ある美しい街並みだったその場所は、

この世の終わり。人類が滅亡した世界のようだった。

と、見渡す限り、瓦礫の山で、どこがおばあさんの家だったのかも分からなかったそうで、なすすべなく、家に戻られたそうです。

そして、実家には、瀕死の被爆者らが水を求めて押し寄せてきたそうで、一家総出で水を飲ませてあげていたそうですが、

ある女性は、顔が溶岩に流されたようにやけどをしていて、唇は無残にもまくれあがって、うまく唇が合わさらず、

スイッセンガ、イズヲクダサイ(すみませんが、水をください)

と、言われたそうで、

美輪さんが水を飲ませてあげたところ、その女性は、とても穏やかな表情をして、まだ子どもだった美輪さんに手を合わせ(拝んで)、そのまま亡くなったのだそうです。

小学生の頃からピアノと声楽のレッスン

こうして、目を覆いたくなる惨状をたくさん目にしてきた美輪さんですが、終戦後まもなく、古川ロッパさん主演の「僕の父さん」(1946年)という映画を観ていたところ、子役の加賀美一郎さんがボーイソプラノで歌う美しい歌声を聞き、感動したそうで、

繰り返し映画館に通いつめ、劇中歌を全部覚えたことから、学校の廊下で歌っていると、先生に見つかってしまい、

あとで教員室にいらっしゃい

と、言われてしまったそうです。

そして、叱られる覚悟で職員室に行くと・・・

なんと、他の先生の前で歌わされたそうで、

この子、才能あると思いませんか?

と、先生は、その日のうちに美輪さんのお父さんに進言。

こうして、美輪さんは、バリトン歌手の先生が教える音楽教室で、本格的にピアノと声楽を習うことになったのでした。

独学でシャンソンの勉強

そんな美輪さんは、海星中学校に進学されているのですが、この学校は、創立者がフランス人宣教師だったため、英語とフランス語が必須科目(戦時中は敵性語として禁じられるも戦後復活)だったことから、フランス語を基礎から勉強できたそうで、

ある日のこと、美輪さんが、家の前の楽器屋さんを覗くと、フランス語の歌詞が書かれた楽譜があったため、店員さんに頼んでレコードを聴かせてもらったところ、

幼い頃から、時々耳にしていたその歌が、フランスのシャンソンであることを知ったそうで、その日以来、美輪さんは、独学でシャンソンの勉強を始めたのでした。

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実家が破産も・・・

そして、中学卒業後の15歳の時には、歌手を目指して上京されると、国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)に通うようになったのですが・・・

実家が破産してしまい、仕送りが途絶え、1年も経たないうちに中退。

下宿代が払えず、住んでいたアパートも追い出されると、当時、戦争で焼け出された人が多く寝泊まりしていた新宿の地下道や駅の構内に、美輪さんも潜り込まれたのでした。

しかし、そんな中、高校時代の上級生にばったり出会い、

君、ジャズ歌えるか?

と、誘われ、このことをきっかけに、進駐軍のキャンプ回りを始めると、進駐軍相手にジャズを歌ってお金を稼ぐようになり、

その後、アルバイト先の喫茶店で顔見知りになった学生から、

今度、早稲田の喫茶店で、宝塚歌劇団出身の橘薫さんがシャンソンのコンサートをやるんで、前座で歌ってくれないか。

と、頼まれ、二つ返事で引受けると、橘さんが認めてくれ、今のままではもったいないからと、今度は、銀座にあるシャンソン喫茶「銀巴里」を紹介されたのでした。

「美輪明宏の若い頃はメケメケで大ブレイクも芸能界から干されていた?」に続く

「銀巴里」で歌唱する美輪さん。

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