カフェを営むご両親のもと、大人たちにかわいがられて、何不自由なく育った、美輪明宏(みわ あきひろ)さんですが、太平洋戦争では被爆し、様々な悲惨な光景も目の当たりにされたのでした。

「美輪明宏の生い立ちは?幼少期から批判的だった?」からの続き

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戦争を経験

やがて、戦火が激しくなると、1941年12月には、店先のマネキンが「退廃的」とされて撤去させられたほか、カフェも、「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」との理由で廃業せざるを得なくなり、

(その後、お父さんは、金融業に転業されたそうです)

モダンで国際色豊かだった長崎の街からも、次々に色が消し去られていきます。

原爆のピカドンを目の当たりにし被爆

そして、1945年8月9日、美輪さんが10歳(小学4年生)の時、自宅の2階の部屋で、夏休みの宿題として、御伽草子の「万寿姫」の絵を描いていると、

なかなかの出来だったため、張り出された時にどう見えるかを確かめたくて、勉強机から2、3歩下がったその瞬間、まるで、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光が走ったそうで、

こんないい天気なのに雷?

と、不思議に思い、同じ部屋で布団の手入れをしていたお手伝いさんに聞こうとしたその直後、

まるで世界が息を止めたかのような深い静寂に包まれ、次の瞬間、激しい爆発音が鳴り響き、家がグラグラと揺れ、ガラス窓が割れ、瓦が降ってきます。

その後、すぐにお手伝いさんに促されて2人で布団をかぶると、うなるような「B29」の爆音が聞こえ、それが遠ざかり始めたころ、空襲警報が鳴り出したそうで、

逃げましょう。また敵機が来るかもしれないから

と、お手伝いさんに促され、1階に下りたところ、お兄さん(安宏さん)が柱の下に倒れていたものの、お兄さんにケガはなく、お手伝いさんとともにお兄さんを助け起こすと、3人で「大徳寺」というお寺の下に掘られた防空壕(ぼうくうごう)を目指されたのでした。

(美輪さんの自宅は爆心地から南東約3.9キロの長崎市本石灰町にあり、美輪さんは被爆してしまったのでした。)

家族全員無事も・・・

ただ、防空壕を目指す途中では、船大工町の「福砂屋本店」付近で、荷車を引く馬が倒れ、すぐ脇で、おじさんが、まるでフライパンの上でいった豆のような動きでピンピンと飛び跳ねる異様な光景を目にしたそうで、

美輪さんは、

やけどして痛かったのか、発狂なすったのかわからないけど、それを見て怖くなって、パーッと逃げたんです

と、ほこりや煙がもうもうと立ち込める中、必死の思いで進み、ようやく防空壕に到着。

すると、ほどなくして、美輪さんのお父さんがやってきたそうで、実は、お父さんは、カフェ閉店後、金融業を営んでいたため、浦上に集金に行っているはずだったのですが、さぼって、茂木に魚釣りに向かっていたため、難を逃れていたのでした。

こうして、家族全員無事だった美輪さん一家は、その日のうちに、お父さんの知人宅がある、郊外の「田手原町」に逃避することになったのでした。

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空襲後の悲惨な光景を目の当たりに

そして、その道中では、いきなり誰かに腕を掴まれ、振り返ると、建物の下敷きになった人が助けを求めていたにもかかわらず、驚いて腕を振り払うと、その人の肉がズルっとむけて美輪さんの腕にくっついたことがあったほか、

ある下宿屋の前では、そこの娘と学生二人が、リヤカーに枕1個だけ積んで、ぼうぜんと立ち尽くしている姿を目にするなど、

この世とは思えない空襲後の悲惨な光景に、何度も何度も立ち止まり、燃える長崎を見ては、ため息をつきながら、数多くの人たちと市街地から山を越えて郊外に向かわれたのでした。

「美輪明宏の少年時代は?実家破産で高校中退も銀巴里と専属契約!」に続く

原爆投下後の長崎市。

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