1973年、25歳の時、「チューリップ」として3枚目のシングル「心の旅」が大ヒットとなり、一躍、スターダムにのし上がると、その後も、「青春の影」「サボテンの花」「虹とスニーカーの頃」など、次々とヒットを飛ばし、その人気を不動のものにした、財津和夫(ざいつ かずお)さんですが、

その後、「チューリップ」は、メンバーの脱退と加入を繰り返し、セールスが低迷していったといいます。

今回は、財津和夫さんの、若い頃(「第二期チューリップ」時代~「第三期チューリップ」時代~解散まで)の代表曲や経歴を時系列でご紹介します。

財津和夫

「【画像】財津和夫の若い頃(アマチュア時代から第1期チューリップ)は?」からの続き

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財津和夫は31歳の時に「チューリップ」から上田雅利と吉田彰に脱退されていた

財津和夫さんは、1979年7月20日、「チューリップ」として、10枚目のアルバム「Someday Somewhere」をリリースした後、上田雅利さんと吉田彰さんに脱退されているのですが、

吉田彰さんは、脱退した理由について、印税の問題があったことや、

財津和夫さんのソロ活動のためにグループでの活動が減少し、経済的な問題を抱えていたこと、

また、財津和夫さんから伝達事項を直接伝えられず、第三者を通して伝達されてくることに、強い不満を抱いていたそうで、

財津和夫さんに脱退したい旨を伝えると、財津和夫さんからは予想した通りの言葉が返ってきたことから、自身が辞める決断をしたことは正しかったと確信したことを明かしています。

財津和夫は吉田彰に脱退された後も激しく非難されていた

さらに、吉田彰さんは、「チューリップ」をすぐに辞めさせてもらえなかったうえ、高崎方面で、日帰りの単発コンサートが行われた際には、帰りの列車の中で、したくもないカードゲームに半ば強制的に参加させられ、

それから、数週間後、カードゲームに興じる吉田彰さんたちの写真が月刊誌に掲載されたことから、これは、新メンバーの宮城伸一郎さんが加入したことへの話題作りだったと気がつき、自身が利用されたことに怒りが収まらなかったといいます。

一方、財津和夫さんはというと、著書「こんなに近くにいるのに・・・」で、

吉田彰さんが「チューリップ」を脱退し、音楽自体を辞めてしまったことの理由が分らない

と、綴っており、

吉田彰さんは、これに対しても激しく反論しています。

財津和夫は31歳の時に「(第二期)チューリップ」として活動再開も37歳の時には姫野達也、安部俊幸、伊藤薫にも脱退されていた

さておき、財津和夫さんは、1979年、上田雅利さんと吉田彰さんが脱退した後は、新たに、宮城伸一郎さん(ベース)、伊藤薫さん(ドラムス)を加え、安部俊幸さん、姫野達也さんの5名で、「(第二期)チューリップ」として、活動を再開すると、

財津和夫さんの音楽的方向性を反映し、シンセサイザーやデジタル機器を駆使した電子音を強調したサウンドで、宇宙、平和、環境問題、未来、普遍的な愛といったテーマを基にポップで壮大な音楽を創り上げるのですが、

セールスは低迷し、1985年夏には、姫野達也さん、安部俊幸さん、伊藤薫さんも脱退してしまいます。

財津和夫は37歳の時に「(第三期)チューリップ」を再始動するもファン離れが加速していた

それでも、財津和夫さんは、新メンバーとして、キーボードとヴォーカルの丹野義昭さんを迎え、1人残った宮城伸一郎さんと、サポートメンバーと共に、「(第三期)チューリップ」を再始動するのですが・・・

ファン離れは加速するばかりだったといいます。

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財津和夫は41歳の時に「チューリップ」を解散していた

その後も、財津和夫さんは、メンバーの脱退と加入を繰り返していたのですが、1989年には、ついに、「チューリップ」は解散となっています。

ただ、1997年には、姫野達也さんの呼びかけで再結成すると、以降、不定期で全国ツアーを開催しています。

お読みいただきありがとうございました

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