財津和夫は「チューリップ」の前に「フォーシンガーズ」で活動していた!


大学では激しい学生運動が繰り広げられ、ほとんどの音楽バンドが反戦メッセージ色の強い曲を演奏する中、純粋に音楽を楽しみたいとの思いから、「ビートルズ」のような曲ばかりを演奏していたという、財津和夫(ざいつ かずお)さんは、やがて、プロになるためにヤマハのコンテストに出場したといいます。

「財津和夫は高校卒業後はパチンコに夢中だった!」からの続き

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「ザ・フォーシンガーズ」では「ライト・ミュージック・コンテスト」で6位だった

学生運動から距離を置き、純粋にやりたい音楽をしていた財津さんは、次第に、アマチュアとしての活動に満足できなくなり、プロのミュージシャンを意識するようになったそうで、

(バンド活動は本当に楽しかったそうですが、大学卒業を間近に控え、将来のことを考えてのことだったそうです)

その第一歩として、1969年には、田中孝二さんにより結成された「ザ・フォーシンガーズ」に、吉田彰さん、末広信幸さんとともに参加して、ヤマハ主催の「ライト・ミュージック・コンテスト」に出場し、「金毘羅舟々(こんぴらふねふね)」という曲を演奏すると、見事、予選を通過。

(※「ザ・フォーシンガーズ」は財津さんが結成したという説も)

ただ、九州地区代表として出場した、新宿区の東京厚生年金会館で開催された本選「第3回ライト・ミュージック・コンテスト」(フォーク部門)では、6位に終わったそうで、

グランプリを獲るつもりで東京に乗り込んでいた財津さんたちは、失意の中、福岡に帰ると、1970年には、「ザ・フォーシンガーズ」を解散したのだそうです。

(グランプリは「赤い鳥」、2位は小田和正さんらの「オフコース」だったそうです)


「ザ・フォーシンガーズ」(左から、末広信幸さん、吉田彰さん、田中孝ニさん、財津さん。)

「チューリップ」では「ライト・ミュージック・コンテスト」で準グランプリに

そして、悔しくて仕方がなかったという財津さんは、

生まれ変わってがんばるぞ

と、気持ち新たに、音楽に取り組んだそうで、

オリジナルで勝負できるバンドを目指して、末広信幸さん、吉田彰さんに、(実力派バンドから引き抜いた)宗田慎二さんを加え、4名でバンド「チューリップ」を結成すると、

同年(1970年)のヤマハ主催の「第4回ライト・ミュージック・コンテスト」では、「柱時計が10時半」という曲を演奏し、見事、2位(準グランプリ)に輝いたのでした。

地元・福岡で人気を博す

その後、財津さんたち「チューリップ」は、1971年には、自主制作シングル「柱時計が10時半」「ええとこの子のバラード」「鼻毛の唄」「ママがパパを愛したように」の4曲を、福岡限定で2000枚発売すると、地元、ラジオでもオンエアされて、一気に知名度がアップし、

(「ビートルズ」の大ファンだという資産家が、自費制作レコード資金を提供すると申し出てくれたのだそうです)

博多の音楽喫茶「照和」(現在のライブハウス)で、連日ライブ活動を展開すると、すさまじい人気を博したのでした。

(ギャラはステージの幕間に出るソーダ水と食パン二切れだけだったそうですが、ステージで歌える楽しさは、何にも代え難い喜びがあったそうです)

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メジャーデビューを目指して上京

そして、やがては、いくつかのレコード会社から誘いが来たそうですが、すべてマイナーな会社だったことから、「チューリップ」を安売りしたくなかった財津さんたちは、すべて断ったそうで、

宗田さんのお兄さんの知り合いの、「東芝音楽工業」(現・ユニバーサル ミュージック合同会社)に勤めている人から、邦楽制作部のディレクター・新田和長さんを紹介してもらい、同年、メジャーデビューを目指して上京したのだそうです。

(「東芝音楽工業」は、当時、ビートルズのレコードを手掛けていたそうです)

ちなみに、 財津さんは、故郷・福岡から上京を決意した時のことについて、

東京に行くのも自分で決めたし、親に行くよと言ったのは行く日。(故郷を)いったん切り捨てましたね。戻ってこられるっていう気持ちがあると、何か自分の力がでないんじゃないかというのがあったんで。とにかく切り捨てよう。

と、語っています。

(両親はそんな財津さんを黙って見送ってくれたそうです)

「財津和夫は「チューリップ」でデビュー直後メンバーが脱退し解散していた!」に続く

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