1970年代、「8時だョ!全員集合」に出演すると、「加藤ちゃんペ」「ちょっとだけよ~」などのギャグを次々と生み出し、たちまち、お茶の間の人気者になった、加藤茶(かとう ちゃ)さん。そんな加藤さんですが、意外にも、当初はコメディアンを目指していたわけではありませんでした。

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年齢は?出身は?身長は?

加藤さんは、1943年3月1日生まれ、
東京府東京市世田谷区(現・東京都世田谷区)のご出身、

身長163センチ、
体重60キロ、

血液型はA型、

学歴は、
福島市立福島第四小学校
⇒福島市立福島第ニ中学校
⇒福島工業高校(現・松韻学園福島高等学校)中退

趣味は、
腕時計収集、麻雀、アングラ芝居観劇、ギャンブル、格闘技観戦、クルマ、

特技は、ゴルフ、

ちなみに、お父さんは、ギタリストの平八郎(たいら はちろう)さん、キーボード奏者で音楽プロデューサーの渡辺茂樹さん、歌手の南翔子さんは、それぞれ、従甥(いとこの息子)と従姪(いとこの娘)だそうです。

本名は?芸名の由来は?

加藤さんの本名は、「加藤 英文(かとう ひでゆき)」で、「加トちゃん」「カトちゃん」「ヒデ坊」などと呼ばれていたそうですが、

先輩のハナ肇さんから、

芸事で飯を食っていこうとするのなら、水に係わりのある芸名にした方がいい。お前は、みんなから「加トちゃん」って呼ばれてるんだから、加藤茶にしなさい。

と、言われたことことから、芸名を「加藤茶」にしたそうです。

(当時、加藤さんは「オレお茶かよ」と思ったそうですが、ハナ肇さんは、憧れの大先輩だったため、逆らえなかったのだそうです(笑))

生い立ち

さて、加藤さんは、戦争真っ只中の1943年、ギタリストだったお父さん・平八郎さんのもと、2人兄妹の長男として東京で誕生するのですが、お父さんがガンを患い、終戦後はお父さんの郷里の福島県福島市に移り住みます。

そして、ほどなくして、お父さんが他界。そのため、お母さんは、加藤さんと加藤さんの妹2人を福島に残し、一人で東京に戻ると、飲食店で働き、加藤さん達に仕送りを続けてくれたそうで、

加藤さんは、後に、

父のことは何も覚えていません。オイラが小学校に入る頃、母ちゃんが福島に帰ってきて、2歳下の妹と一家3人で暮らせるようになった。母は飲食店をやって、女手一つでオレたちを育ててくれたの。

と、語っておられます。

トロンボーン奏者を諦めてドラマーに

そんな加藤さんは、高校2年生の時、親類を頼って上京すると、東京の人の多さと活気に心が踊り、

もし福島に戻ったら、東京においていかれる

との思いから、学校を中退し、東京で暮らす決意をします。

そこで、さっそく生活のために仕事を探さなければならなかったのですが、ギタリストだったお父さんの影響で、バンドマン(トロンボーン奏者)を目指し、バンドボーイの仕事を見つけます。

ただ、トロンボーンはとても高価で、安月給だった加藤さんには、到底、手が届かず、あきらめることに。

そんな中、プロのドラマーから、捨てておいてと折れたスティックを渡されたことがきっかけで、スティックが2本あれば練習できるドラムをやろうと決意すると、

その折れたスティックを削って練習に励み、また、運良く、先輩のドラマーがドラムを教えてくれたこともあり、半年で、「クレージーウエスト」のメンバーとして加入。プロのバンドマンになったのでした。

(この「クレージーウエスト」では、後に「ザ・ドリフターズ」として共に活動する、仲本工事(当時は仲本コージ)さんと出会われています)

ちなみに、加藤さんは、プロになって最初にお給料をもらった時、お母さんと妹さんを東京に呼び、洋食屋に食べに連れて行かれたそうで、

2人においしい物を食べさせたくて、頑張ってきた……
鶏の料理を3人で泣きながら、食ったんだ。

と、明かされていました。

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「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加入

その後、加藤さんは、ほかのバンド(バンド名は不明)に移ると、

(当時は、バンドを移るたびにギャラが上がるという慣例があったそうです)

1962年、19歳の時には、ズーズー弁をしゃべる面白い若者として楽屋で人気があったことから、スカウトされ、3つ目のバンド「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に加入されたのでした。

「加藤茶の昔はちょっとだけよで大ブレイク!ハゲヅラちょびヒゲも!」に続く

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