翌々日、家族と水盃をして別れを告げ、命令通り、憲兵本部に出頭すると、すぐに、狭い地下室に放り込まれたという、森繁久彌(もりしげ ひさや)さんは、その後、いよいよ、尋問が始まり、森繁さんがアナウンサー時代に行っていた対ソ放送について取り調べを受けたそうです。
「森繁久彌は満洲では憲兵隊本部の狭い地下室に放り込まれていた!」からの続き
ソ連の憲兵中尉から対ソ放送をしていたと尋問を受ける
憲兵本部に出頭すると、すぐに、狭い地下室に放り込まれた森繁さんは、深夜近くには、鍵が開けられ、兵隊に2階の部屋に通されたそうです。
そして、いよいよ、尋問が始まると、
中尉には、
お前は対ソ放送をたびたび実施している
と、言われたそうで、
森繁さんが、
そんな覚えはない
と、否定すると、
中尉は、
嘘をつくと損である、お前の放送は全部調べがついている。見せてやろう
と、言い、森繁さんの作品の一覧表を見せたそうで、
これには、森繁さんは、大変、驚いたそうです。
(特に、森繁さんの昇進の作品で、関東軍報道演習の際の、ソ連と満州の国境に流れるアムール河のルポルタージュで、長編3部作「黒竜氷原を往く」などが克明に出ていたそうです)
ソ連の憲兵中尉からの尋問に「芸術家」だと答えていた
そして、続けて、中尉が、
これは、お前の作ではないのか?
と、聞いてきたことから、
森繁さんが、
いかにも。 しかし、関東軍の命令である
と、答えると、
中尉は、さらに、
オリジナリティを認めないのか?
と、聞いてきたそうで、
森繁さんは、
私は、報道員ではない。芸術家である
と、答えたそうですが、
中尉は、フフンと鼻で笑ったそうで、
しばらく考えてから、
しからば、新京に住む芸術家を千人、ただちに集める自信があるか?
と、奇妙な質問をしてきたのだそうです。
これには、森繁さんは、黙って答えなかったそうですが、しばらくすると、中尉は通訳と何か話し、森繁さんに一瞥(いちべつ)もせず、隣の部屋へと行ってしまったのだそうです。
涙ながらに土下座する姿を気に入られ釈放される
そこで、森繁さんは、いよいよ拷問が始まるのだろう、と直感的に思ったそうで、
(両手を後ろに縛られ、ろうそくで背中を焼かれるという話も聞いていたため)
苦しくなったら、舌を噛み切って死んでやろうと決心したそうですが、今度は、ふと、次は家族を襲うのではないかと思い始めたそうで、そうなると居ても立っても居られなくなり、
通訳を呼んで、
罪があるというなら、それにも従うが、どうか、私以外を苦しい目にあわさないでくれ。私はあなたも知っているように、老いた母がある。あの罪もない母が苦しむことは、忍び難いのだ
と、土下座して訴えたのだそうです。
すると、そのうち、ハラハラと涙がこぼれたそうですが、やがて、そんな森繁さんを見ていたのか、上で中尉の笑う声が聞こえ、続いて、「アルチースト(芸術家)」という言葉が聞こえると、
中尉から、
なるほど、こいつは芸術家だ。泣くのが上手いわい
話はすんだ、釈放する
と、(通訳を介して)言われたのだそうです。
「森繁久彌は全ての持ち物を渡しソ連兵から釈放されていた!」に続く