「御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ」のオーディションでは、一時はパニックに陥るも、立て直し、監督のブライアン・デ・パルマさんから評価され、オーディションに受かった、ロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro)さんは、その後も自身の信念に従って演技を追究し続け、高い評価を得るようになっていきます。

「ロバート・デ・ニーロはデビュー作のオーディションでパニックに陥っていた!」からの続き

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リー・ストラスバーグ主宰の「アクターズ・スタジオ」に参観メンバーとして出席

1963年、20歳の時、ブライアン・デ・パルマ監督作品「御婚礼/ザ・ウェディング・パーティ」で、本格的に映画デビューしたデ・ニーロさんですが、残念ながら、この映画はお蔵入りしてしまい(1969年にようやく公開)、以降、デ・ニーロさんに、映画の出演依頼が来ることはありませんでした。

ただ、1964年、21歳の時、恋人だった女優のサリー・カークランドさんに、知り合いの女優・シェリー・ウィンタースさんを紹介されると、シェリーさんはデ・ニーロさんに才能を感じ、リー・ストラスバーグさん主宰の「アクターズ・スタジオ」のオーディションを受けるように勧めてくれたそうで、

(この「アクターズ・スタジオ」は、マーロン・ブランドさんやジェームズ・ディーンさんら著名な映画人を輩出した演劇専門学校の名門と言われています)

デ・ニーロさんが、(前の演劇学校で懲り懲りだったのか)オーディションを受けることを頑なに拒否するも、シェリーさんは、「アクターズ・スタジオ」の参観メンバーとして出席できるようにかけあってくれたそうで、

デ・ニーロさんは、参観メンバーとして、「アクターズ・スタジオ」に出席するようになると、リアリズムを徹底的に追求する「アクターズ・スタジオ」独自の演劇法を、静かに観察し、

(決して自分の意見を言わず、常に謙虚に観察していたそうです)

帰宅後は、一転、感情を昂(たかぶ)らせ爆発して、同棲していたサリーさんとドラマ仕立ての稽古に励んだのだそうです。

オフ・ブロードウェイの舞台で頭角を表す

また、デ・ニーロさんは、巡回劇団が催していた、チェーホフの「熊」ほか、「シラノ・ド・ベルジェラック」「欲望という名の電車」など、オフ・ブロードウェイの小さな劇場で開催される舞台に端役として出演するほか、1965年、22歳の時には、マルセル・カルネ監督の映画「マンハッタンの哀愁」に端役で出演すると、

同年には、オフ・ブロードウェイの舞台「Vain Victory」のオーディションに合格して、5人ものキャラクターを演じきり、才能ある新人として一部の劇評で高い評価を受けるのですが・・・

やがて、そんな一時の評価から逃げるように、自身のルーツに向き合うべく、旅費を貯め、アイルランドとイタリアに放浪の旅に出たそうで、

まずは、おばあちゃんのヘレン・M・デ・ニーロさんの故郷であるアイルランド、次に、ヨーロッパに渡り、ヒッチハイクで曽祖父母が暮らしていたという、イタリア・ナポリ近くあるカンポバッソ県フェラッツァーノを訪れたのだそうです。(4ヶ月もの旅だったそうです)

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「ブルーマンハッタン2/黄昏のニューヨーク」「ブルーマンハッタン/哀愁の摩天楼」での演技が高い評価

すると、そんなデ・ニーロさんの秘めた才能を感じていたブライアン・デ・パルマ監督から再び声をかけられ、1968年には、「ブルーマンハッタン2/黄昏のニューヨーク」、1970年には、「ブルーマンハッタン/哀愁の摩天楼」で、いずれも、のぞき趣味の青年役として出演すると、

2作とも低予算で作られた映画ながら、

内に籠(こも)った暴力を爆発させる人間を演じさせたら、デ・ニーロの右に出る者はいないだろう

と、デ・ニーロさんの演技は高く評価されたのでした。

ちなみに、デ・ニーロさんは、自身の演技についてほとんど語ることはないのですが、

当時、

キャラクターの各要素が”数学”の問題のように映る。その答えがスクリーンに映し出されたキャラクターなんだ

と、語っており、

演じる人物の、服装、性格、趣味ほか様々な細かい要素を、数式をあてはめるようにして、演技の答えを導き出していたようです。

「ロバート・デ・ニーロは若い頃B級映画での演技も高く評価されていた!」に続く

「ブルーマンハッタン2/黄昏のニューヨーク」より。

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