1958年、読売ジャイアンツに入団すると、1年目から本塁打王と打点王の2冠王に輝き新人王を獲得すると、以降も、ここぞの場面での勝負強さや派手なアクションで絶大な人気を誇り、「ミスタープロ野球」と称された、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな長嶋さんの奥さんとの馴れ初めなどをご紹介します。

「長嶋茂雄は右手を切断していた?黒ずんでいる?」からの続き

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妻・亜希子との馴れ初めは?

長嶋さんは、1965年、巨人の三塁手だった29歳の時、西村亜希子さん(22歳)と結婚しているのですが、実は、1964年、東京オリンピックの時、4ヶ国語のマルチリンガルで、コンパニオンを務めていた亜希子さんとスポーツ新聞企画の座談会で初めて知り合うと、この時、亜希子さんに一目惚れしたそうで、

当初は、4ヶ国語を操る亜希子さんに対し、どんなにすごいインテリかと内心恐れていたそうですが、話をしているうちに、素直でいたずらっぽい、普通のお嬢さんだということが分かり、急に気が楽になって自分でもびっくりするくらい饒舌(じょうぜつ)になったのだそうです(笑)

妻・亜希子はすでに有名人だった「長嶋茂雄」を知らなかった

また、この座談会が行われる前、亜希子さんとはホテルのロビーで待ち合わせをしていたそうですが、亜希子さんは、野球にあまり興味がなかったことから長嶋さんを知らず、ロビーに立っていた長嶋さんをスルーして通り過ぎてしまったそうで、

長嶋さんは、「長嶋茂雄」というだけで接近してくるほかの女性ファンとのあまりの違いに、新鮮さを感じたのだそうです。

こうして、長嶋さんは、毎朝、亜希子さんに電話をかけるなど、猛アタックすると、知り合って40日でスピード婚約し、1965年1月26日には、渋谷区南平台の聖ドミニコ教会で結婚式を挙げたのだそうです。

妻・亜希子は語学が堪能だった

ちなみに、亜希子さんは、田園調布雙葉中学校・高等学校在学中にアメリカへ留学し、現地の高校とミネソタ州の聖テレサ大学を卒業しているのですが、そのため、英語・フランス語・スペイン語が堪能だったことから、外務省に務めることが夢だったそうです。

(亜希子さんの祖父・西村辰五郎さんは、出版社「東雲堂書店」を経営し、石川啄木の「一握の砂」「悲しき玩具」、斎藤茂吉の「赤光」、北原白秋の「桐の花」、若山牧水の「別離」など、文学史に残る歌集を出版した人物だそうです)

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妻・亜希子は長嶋茂雄の無作法ぶりに驚くも飾り気のない姿に好感を持っていた

そんな亜希子さんは、長嶋さんの猛アタックに根負けし、長嶋さんとの結婚を受け入れたそうですが、亜希子さんによると、デート中の長嶋さんは、

食事中でも遠慮なしにゲップを連発するほか、デザートはガブッと二口ぐらいで平らげ、スイカを食べる時もスプーンを使わず、いきなりガブリと種ごとかぶりつき、あとから種をペッペッと吐き出す有様だったそうで、その無作法ぶりにはびっくりしたそうですが、それでも、その飾り気のない姿に、好感を持ったそうです。

(二人は帝国ホテルやホテル・オークラなどの奥まったバーやパーティールームでよくデートをしたそうです)

「長嶋茂雄は妻の取材を全て断っていた!」に続く

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