1959年、東映フライヤーズ(現・日本ハム)に入団すると、新人王に輝くほか、最終的には、プロ野球最多の16度のシーズン3割を達成してプロ野球最多の通算3085安打を記録したほか、プロ野球唯一の500本塁打300盗塁も達成するなど、素晴らしい成績を収めた、張本勲(はりもと いさお)さんですが、実は、4歳の時に大やけどを負わされ、右手は元に戻らないままだったといいます。

「張本勲の幼少期は在日韓国人の両親のもと貧乏だった!」からの続き

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4歳の時トラックに跳ね飛ばされて焚き火の中に落ち大やけどを負っていた

張本さんは、物心ついた頃から猿猴川の土手で遊んでいたそうですが、4歳の冬、近所の子供たちと一緒に山で見つけたさつまいもを猿猴川の土手で焚き火をしながら焼いていたところ、突然、三輪トラックがバックで突っ込んできたそうで、「あっ」と思った瞬間、跳ね飛ばされ、焚き火の中に転がったそうです。

すると、運転手は、慌てて張本さんを抱え、家に運び込んだそうですが、張本さんは、焚き火の中に転がった際、右手をついていたため、右手はもちろんのこと、頬、顎、胸の右側にひどい火傷を負ったそうで、

お母さんはパニックになり、張本さんを奪い取って抱きかかえると、泣き叫びながら病院に駆け込んだのだそうです。

右手は炭のように黒く焦げ小指と薬指が三分の一ほどになっていた

そんな張本さんは、その後、顔や胸の傷は癒えたものの、右手は、炭のように黒く焦げ、小指と薬指が焼けて三分の一ほどしかなくなり、また、その2本は完全にくっつき、さらには、親指と人差指も内側に曲がったまま元に戻らなかったそうです。

(運転手は、張本さんを家まで送り届けたものの、その後いなくなってしまったそうで、見かねた叔父さんが警察へ訴えたそうですが、朝鮮人であることを理由に追い返されてしまったそうで、叔父さんは震えるくらい悔しかったと、後に語っていたそうです)

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小学4年生の時に右手の手術を受けるも治らなかった

ちなみに、張本さんは、小学4年生の時、右手の手術を受けたそうで、

(すでに傷が固まっていたため、いくつか回った病院では、「なぜもっと早く連れて来なかったのか」と言われたそうです)

それは、癒着した指を切り離すため、手の平の内側の肉を切断し、曲がった指を伸ばして鉄板で固定するというものだったそうですが、

切り離すことはできたものの、しばらくすると、また内側に曲がってしまったそうで、手術の効果はあまりなかったそうです。

(削り取った部分には、張本さん自身の大腿部の肉を移植したそうですが、その際、お母さんがしきりに「私の肉を使ってくれ」と医者に頼み込んでいたそうで(聞き入れられなかったそうですが)、張本さんは、その時のお母さんの姿が今でも忘れられないそうです)

「張本勲は幼少期に原爆投下に遭うも助かっていた!」に続く

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