原爆が投下がされた中、母親、兄、二番目の姉と共に無事助かったという、張本勲(はりもと いさお)さんですが、原爆の熱線をもろに浴び、全身大やけどを負った一番上のお姉さんは、悶え苦しみながら亡くなったそうです。

「張本勲の姉は原爆の熱線を浴びて全身に大やけどを負っていた!」からの続き

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母親は原爆で全身大やけどを負った姉の体をドブ川のぬるい水で濡らした布で拭くしかなかった

比治山で原爆の熱線をまともに浴びて、全身赤く腫れ上がり、顔も分からない無惨な姿で運ばれてきた、一番上のお姉さんの点子さんは、一晩中、「熱い」「痛い」「苦しい」とうめき続けたそうで、

お母さんは、泣きながら、一睡もせずに看病していたそうですが、医者もおらず、薬もなく、冷たい水が出る水道水もなかったことから、

お母さんは、自分の服を引きちぎり、ドブ川のぬるい水で濡らして、お姉さんの体に当てて拭いてあげることしかできなかったそうです。

一番上の姉が他界

また、張本さんも、お母さんに言われ、小さく破った布切れを川へ走っていって濡らしては、走って戻りと、何度も家と川を往復したそうで、その道すがら、原爆で命を落とした人々の死体が積み重なっていたそうですが、お姉さんを助けたい一心だったため、特に、恐ろしいという感覚はなかったそうです。

そして、張本さん自身でも何とかしてあげたいと思い、そこらじゅうにあったぶどうの実を取ってきて、うめくお姉さんの口元で搾ってあげると、

(ぶどうの汁が出たかどうかも覚えていないそうですが)

お姉さんは何か言いたそうだったため、「ねえちゃん」と何度も呼びながら、お姉さんの口元に耳をやると、お姉さんは消え入りそうな声で、「勲ちゃん、ありがとう」と言った(ように聞こえた)そうです。

お姉さんの写真や形見は母親が全て焼き払ってしまった

そんなお姉さんは、やがて、亡くなったそうですが、(お母さんが教えてくれなかったため)張本さんは、いつ亡くなったのか正確には分からなかったそうです。

ただ、ある朝、お母さんが自分の胸を激しく叩きながら、大声で泣いていたことから、おそらく、その時だと思っているそうです。

(日本では、亡くなった人の物を「形見」として残す文化がありますが、お母さんは、(韓国人の気質と文化の影響からか)、その後、お姉さんのことを一切語ろうとはせず、思い出の品などもすべて処分してしまったそうで、それでも、張本さんとお兄さんが、こっそりとお姉さんの小さな写真を隠し持っていると、お母さんに見つかり、それさえも焼かれてしまったそうで、お姉さんの写真は一枚も残っていないそうです)

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差別を恐れ被爆者であることを伏せていた

ちなみに、生き残っても、被爆してケロイドとなった子供たちは、転校生や被爆していない子供の保護者から、「伝染る」という理由で、「一緒に遊ぶな」と言われたそうで、被爆者は、まるで村八分のように同じ境遇の人たちだけで固まって遊んでいたそうです。

(ケロイドは皮膚の深いところにある真皮という部分で炎症が続くことにより生じるやけどのため、伝染るはずはないのですが、保護者たちは、被爆者の人は何かを吸い込んでおり、それが自分の子供に伝染ると心配したそうです)

そのため、張本さんは、差別されることを恐れ、物心ついてからは、一切、自分が被爆者であることを言わなかったそうですが(言う必要もないと思ったそうです)、

張本さんは被爆者ながらケロイドがないため、健常者の人から、「ケロイド姿の生徒には、健常者に近寄るなと言ってるんですよ」と言われ、驚いたことがあったそうです。

「張本勲は終戦後は粗末な小屋で極貧生活を送っていた!」に続く

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