原爆の熱線をもろに浴び、全身大やけどで悶え苦しむ、一番上のお姉さんを、どうすることもできないまま亡くしたという、張本勲(はりもと いさお)さんは、その後、終戦を迎えた後は、かろうじて雨露(あまつゆ)がしのげる程度の粗末なバラック小屋で極貧生活を送ったといいます。

「張本勲の姉は原爆の熱線を浴び悶え苦しみながら他界していた!」からの続き

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終戦後は水を求めて猿猴川沿いに避難していた

1945年8月15日に終戦を迎えると、ぶどう畑に避難していた人たちは、厳しい暑さを避けるためと、生活のための水を求めて、東大橋に向かって歩いて行き、さらに、猿猴川に沿って避難したそうで、やがて、張本さん一家も、猿猴川の橋の下に身を寄せたそうです。

(川岸には水を求めるたくさんの人たちが集まっていたそうです)

韓国に帰国しようとするも定員オーバーで乗れなかった船が転覆していた

実は、お母さんは、終戦直後、日本語がほとんど話せなかったことや、その後の生活のことを考えた結果、子どもたちを連れて韓国に帰ろうと、猿猴川から朝鮮半島に向けて航行していた闇の船に乗ろうとしたそうですが、張本さん一家が乗る前に定員オーバーとなってしまい、仕方なく次のチャンスを待つことにしたそうです。

ただ、その船は下関の沖合で転覆してしまったそうで、後に、張本さんは、もしその船に乗っていたらと思うと、運命の分かれ道を感じるそうです。

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終戦直後は粗末な小屋(朝鮮部落)で極貧生活を送っていた

さておき、仕方なく韓国への帰国を断念したお母さんは、もともと貧乏だったところに、原爆によって、住む家も失い、これからどうすればいいのか途方に暮れつつも、親子4人、生きていかなければならなかったため、

東大橋近くの川づたいの土手の下(現・南区上の東雲町あたり)に、六畳一間に三畳の土間があるだけのトタン屋根をつけた、かろうじて雨露がしのげる程度の粗末な家(バラック小屋)を借りたのだそうです。

(「朝鮮部落」は、一般的には50~60軒が密集していたそうですが、この東雲町には、小屋が6軒しかなかったそうです。また、トイレは共同で、炊事のための水道も外で共同使用、風呂などはもちろんなく、文字通り、極貧生活だったそうです)

「張本勲の少年時代は母親の営むホルモン焼き屋で生き延びていた!」に続く

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