1968年、法政大学からドラフト1位で阪神タイガースに入団すると、1年目から22本塁打を放って捕手初の新人王を獲得するほか、1975年には本塁打王に輝くなど、プロ野球生活16年間で通算474本(歴代11位)のホームランを放った、田淵幸一(たぶち こういち)さん。今回は、そんな田淵さんの少年時代をご紹介します。

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年齢は?出身は?身長は?本名は?

田淵さんは、1946年9月24日生まれ、
東京都豊島区目白の出身、

身長186センチ、
体重90キロ、

血液型はA型、

学歴は、
目白小学校
⇒豊島区立高田中学校(現・豊島区立千登世橋中学校)
⇒法政大学第一高等学校
⇒法政大学卒業

趣味は、
ドライブ、テニス、ゴルフ、

ちなみに、「田淵幸一」は本名で、愛称は、「ブチ」「ブッちゃん」「タブタ」「オッサン(東尾修さんが使用)」「3代目ミスタータイガース」です。

少年時代は裕福な家庭で何不自由なく育っていた

田淵さんは、毎日新聞販売部長だったお父さんの綾男(あやお)さんとお母さんの花江さんのもと、4人姉弟(姉が3人)の末っ子として誕生すると、両親の愛情をたっぷり受け、裕福な家庭で、何不自由なく育ったそうです。

小学3年生の時に初めて生のプロ野球の試合を見る

そんな田淵さんは、1955年、小学3年生の時、毎日新聞者販売局に勤務していたお父さんが、毎日新聞主催の日米野球第1戦(10月22日)のチケットを入手し、初めて後楽園球場に連れて行ってくれたそうで、

この時、生まれて初めて生のプロ野球(ナイター)を見た田淵さんは、カクテル光線に外野天然芝の緑が映える様子などが、異次元の世界のよう感じられたのだそうです。

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毎日オリオンズのファンになっていた

ちなみに、この時の試合は、毎日オリオンズ(現・ロッテ)対ニューヨーク・ヤンキースで、ヤンキースからは、ミッキー・マントル選手、ヨギ・ベラ選手、 ビリー・マーティン選手など、錚々(そうそう)たるメンバーが来日していたそうですが、

お父さんが、ミサイル打線と言われていた毎日オリオンズの、榎本喜八選手、山内和弘(のちに一弘)選手、葛城隆雄選手からサインボールをもらってくれたことから、田淵さんは、毎日オリオンズのファンになったのだそうです。

(ヤンキースは、この日は、ビジター用のグレーの縦縞のユニフォームを着用していたそうですが、ホームではピンストライプの縦縞で、毎日オリオンズのユニフォームも縦縞だったため、後に、阪神に入団し、縦縞のユニフォームを着た際、田淵さんは、何か運命めいたものを感じたのだそうです)

「田淵幸一は小5の時ジャニーズ喜多川のチームと野球をしたことがあった!」に続く

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