超一流の遊撃守備で、プロ入り1年目から16年間、不動のレギュラーとして活躍した、吉田義男(よしだ よしお)さんは、打撃も5年連続ベストテン入りしていたといいます。

「吉田義男が完成させた究極の2つの併殺(ダブルプレー)とは?」からの続き

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5年連続で打撃ベストテン入り

華麗な守備で「牛若丸」と称され、観客を魅了した吉田さんは、打撃の方でも、ミートには天性のものがあり、速球に強く、強靭なリストで打球スピードもあったそうで、

3年目(1955年)、打率2割8分1厘でセ・リーグの打撃ベスト8位に入ると、4年目(1956年)は、2割9分で4位、5年目(1957年)は、2割9分7厘で3位、6年目(1958年)は、2割8分6厘で4位、7年目(1959年)は、2割7分2厘で10位と、5年連続で打撃ベストテン入りを果たしています。

(特に、国鉄と巨人で通算400勝を挙げた金田正一投手と相性が良かったそうです)

夏場まで3割キープも終盤にかけて打率を下げていた

ただ、どうしても目標とする3割には届かなかったそうで、夏場まではだいたい3割をキープできるものの、夏場から終盤戦で打率を下げてしまうパターンが続いたそうで、特に悔しかったのは、1957年だったそうです。

このシーズンは、巨人の与那嶺要(ウォーリー与那嶺)選手(この年の首位打者)とオールスターの頃まで首位打者争いをしていたそうですが、

(オールスターのベンチでも、巨人の川上哲治さんに、「おい、おまえ、うまいこと打つなあ」と声をかけられたそうです)

後半戦で息切れしてしまい、3割まであとヒット2本というところで、終わってしまったのだそうです。

(投高打低の時代だったことから、3割の価値は今より数段上だったそうで、3割打者はリーグ全体で3~4人しかおらず、少ない時には1~2人だったそうです)

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プロ8年目に打撃成績が急落

こうして、吉田さんは、なんとか3割に到達するべく、毎年必死にやっていたそうですが、そうこうしているうちに、8年目の1960年、2割4分9厘に終わると、翌年の1961年には、さらに、2割2分8厘まで落ち込み、

順風満帆で走り続けてきたプロ生活で、初めて大きな壁にぶち当たったのだそうです。

(1960年で27歳になり、体力の衰えも感じ始めていたそうです)

「吉田義男は9年目オフに大徳寺で修行していた!」に続く

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