1984年12月26日(現地時間・日本時間では27日)、マイナーリーグのミルウォーキー・ブリュワーズと契約しメジャーに挑戦することになった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、翌年1985年2月上旬に渡米し、テスト生としてブリュワーズのスプリングキャンプに合流すると、26人が集まった中、中継ぎ左腕の1枠として、投手枠11人に入ることを目指したといいます。

「江夏豊の引退試合は球団の垣根を超えたものだった!」からの続き

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「ミルウォーキー・ブリュワーズ」のスプリングキャンプに合流

江夏さんは、1985年2月上旬に渡米すると、自主トレで体を慣らした後、ロサンゼルスでのミニキャンプに参加し、テスト生として、2月25日からアリゾナ州フェニックス・サンシティーでの「ミルウォーキー・ブリュワーズ」のスプリングキャンプに合流すると、2月28日にはフリーの打撃で登板。

そして、3月8日には紅白戦に初登板すると、1回を無安打に抑え、以降、フリー打撃や紅白戦で4度登板すると、外角低め一杯への抜群の制球力を見せ、174打数18安打、被安打率.103と好投したそうで、

今のオレは“野球をやっているんだ”という心境になっている。やり甲斐がある

と、充実した表情で語っています。


若者に混じって練習に励む江夏さん。

(とはいえ、日本での江夏さんの待遇とは雲泥の差があり、日給25ドル〈当時のレートで6250円)、身の回りのことは、すべて自分でやらなければならなかったそうです)

中継ぎ左腕として11人の投手枠に入ることを目標にしていた

こうして、中継ぎ左腕の1枠として、開幕までに11人の投手枠に入ることを目標に、26人のライバルたちとしのぎを削っていた江夏さんは(背番号は「68」)、

(試合をやるたびに、打たれた投手が一人また一人とカットされていったことから、ロッカー室はお通夜のようだったそうです)

ワシを必要としてくれるチームがあれば、どこにでも行く

と、意欲を語っていたのですが、

当初、アメリカの野球関係者は、「日本から太った男が来た」と、冷ややかに見ていたそうです。

好調なスタートを切っていた

それでも、江夏さんは、3月13日、オープン戦のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦に初登板すると、2回を無安打無失点に抑え、3月18日のシアトル・マリナーズ戦でも、1死三塁のピンチを遊ゴロ、三振で切り抜け、2回1安打無失点で初勝利をあげます。

また、3月23日のサンディエゴ・パドレス戦では、6対2とリードの6回からリリーフすると、ブルース・ボウチーに右中間ソロホームランを浴びて初失点するも、2回を投げて3安打1失点、2イニング目に二死満塁のピンチを招いたそうですが、カウント0-3から、強打者のテリー・ケネディを外角低めチェンジアップで空振り三振に仕留め、2回を1失点に抑えたのでした。

(江夏さんは、この時、思わずガッツポーズしたそうです)

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メジャーへの昇格率は75%と言われていた

ちなみに、ジョージ・バンバーガー監督は、3月18日には、江夏さんのメジャー昇格の確率を「70パーセント」と言っていたのですが、

3月25日には、

窮地に立ったとき、どういうピッチングをするかでピッチャーの格は決まる。エナツは素晴らしいピッチャーだ。大リーグ入りの可能性は75パーセントだと思う

と、絶賛し、

エナツは最終選考まで落とすようなことはしない

と、語っており、

江夏さんは、日を追うごとに評価を上げていったのでした。

(3月18日の時点で26人中8人の投手が振るい落とされていたそうで、当確の7人を除いた残る3つの枠を11人で争うことになったそうです)

「江夏豊はマイナーリーグで日本の野球との違いを痛感していた!」に続く

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