西武では、広岡達朗監督に嫌われて二軍に落とされ、それっきり一軍には呼んでもらえず、そのまま現役引退した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、ひょんなことから、マイナーリーグのミルウォーキー・ブリュワーズと契約し、メジャーに挑戦することになったといいます。

「江夏豊は前年まで5年連続セーブ王も広岡達朗監督に嫌われ引退していた!」からの続き

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球団に束縛されることを嫌い自由契約で引退していた

前年まで5年連続でセーブ王だったにもかかわらず、広岡達朗監督に嫌われて二軍に落とされ、そのまま一軍に上げてもらえず、現役を引退した江夏さんですが、

実は、普通なら「任意引退」するところ、「自由契約」にしてくれと言っていたといいます。

(「任意引退」は、クビではなく、選手自身が自ら身を引く時に適用されるもので、他球団との契約は禁じられているのですが、一方、「自由契約」は、クビというニュアンスがあるかわりに、他球団とも契約出来るほか、球団に束縛されることもありません)

すると、球団側の窓口だった管理部長の根本陸夫さん(元・広島監督、後に西武、ダイエー監督)には、

よそに行かれたら困る。お前はまだ交換要員として商品になるんだから

と、言われたそうですが、

(まだ十分活躍できると見込まれ、本気で他球団に行くことを嫌がられたのだそうです)

今さら他の球団でやる気持ちもなく、辞めてからも球団に束縛されるのが嫌なだけだった江夏さんがその旨を伝えると、最終的には、「俺の顔を汚すなよ」と念を押しながら、自由契約を了承してもらったのだそうです。

大リーグのウインター・ミーティングを訪れると球団幹部・レイ・ポイトベントからメジャーのキャンプへ招待される

そんな江夏さんは、その後は、講談社との付き合いが長かったため、週刊誌「週刊現代」で評論活動をしようと思っていたそうですが、永谷脩さんに、小学館の「週刊ポスト」に書いてほしいと言われたそうで、これを引き受けると、その御礼にと、アメリカ旅行に招待してもらったそうです。

すると、アメリカでは、ちょうど、大リーグのウインター・ミーティング開催の時期だったそうで、せっかくだからのぞいてみようということになり、開催場所だったヒューストンの会場を訪れると、

そこで、「レッドソックス」や「エンゼルス」の球団幹部を務めるかたわら、代理人としても活動していたレイ・ポイトベントさんから、「江夏にプレゼントをあげるよ」と、メジャーのキャンプに招待されたのだそうです。

(※ウインター・ミーティングとは、オーナーからスカウトまで、あらゆる関係者が集まり、球団運営の情報交換やトレードなどをする年に1度のイベント)

西武で完全燃焼できなかった気持ちからメジャーに挑戦する気持ちになっていた

そんな突然の誘いに、最初は「ふざけるな、俺の野球はもう終わったんだ 」と思ったそうですが、メジャーのキャンプは誰でも参加できる訳ではなく、日本で相当の成績を残していてもなかなか相手にしてもらえるものではなかったうえ、

(当時は日本人選手がメジャーで成功するなど考えられない時代だったそうです)

どこかに、西武で完全燃焼できなかった思いが残っていた江夏さんは、永谷さんに、「行こう」と誘われると、永谷さんの情熱に乗せられて、チャレンジしてみよう、という気持ちになったのだそうです。

(実は、ポイトベントさんは、奥さんが日本人女性だったこともあり、日米の架け橋となって、横浜(現・DeNA) の ボビー・ローズ選手や、近鉄のベン・オグリビー選手らを送り込んだ人物でもあったそうで、そのせいか、日本の野球にも詳しく、江夏さんが西武を辞めたいきさつなども全部知っていたそうで、永谷さんとポイトベントさんの間で、あらかじめ話がついていて、江夏さんはそれに乗せられたのかもしれないそうです)

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ミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約を結ぶ

こうして、江夏さんは

日本の野球界を見返してやる

自分の納得できる場所でもう1回投げてみたい

との思いから、1984年12月26日(現地時間・日本時間では27日)、ロサンゼルスで、団野村さんの立会いのもと、ミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約を結び、野球人生も終盤となる中、メジャーに挑戦する道を選んだのでした。

(団野村さんは、野村克也さんの義理の息子(野村さんの妻・沙知代さんの連れ子)で、元野球選手だったそうですが、「かばん持ちも通訳も全部やります」と言って、通訳を買って出てくれたのだそうです)

「江夏豊はどの球団からも引退試合をしてもらえなかった!」に続く

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