1964年には、初の打率3割を超え、阪神のリーグ優勝に大きく貢献した、吉田義男(よしだ よしお)さんですが、寄る年波には勝てず、1967年には、潔く引退するか、現役にしがみつくかの判断に迫られる中、後輩の村山実さんが次期監督に決まり、心穏やかではなかったといいます。

「吉田義男はジーン・バッキーと親しく交流していた!」からの続き

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潔く引退するか現役にしがみつくかの判断に迫られていた

吉田さんは、12年目の1964年をピークに打撃成績が徐々に下降し、15年目の1967年には、打率2割3分4厘にまで落ち込むと、同年には、開幕から藤田平選手に遊撃手の定位置を譲り、二塁へ回ったそうですが、遊撃手と二塁手ではまるで勝手が違ったそうです。

とはいえ、一流の二塁手を目指して一からやり直すには、年を取りすぎていると感じたほか、一番か二番だった打順も下位に下がり、打率も下降するばかりだったことから、一流プレイヤーとしてのイメージを大切にして身を引くか、二流に落ちたと思われても現役にしがみつくかの判断に迫られたそうです。

(吉田さんは、後に、元東大野球部監督の神田順治さんに「二塁を守るのは、苦しそうだったね」と言われたことがあったそうですが、図星だったそうです)

下馬評では次期監督候補の筆頭だったが・・・

そんな中、1968年、8シーズン監督を務めた藤本定義さんがオフに退任し、マスコミからは、「後任は、村山(実)か吉田」と書き立てられていたのですが、

結局、監督に就いたのは、戦後のダイナマイト打線を形成した後藤次男さんだったそうで、吉田さんは、現役のまま兼任守備コーチ、村山さんも、現役のまま兼任投手コーチとなったそうです。

すると、この時から、マスコミには、吉田さんと村山さんの次期監督争いという視点で、憶測記事や二人の不仲説が次々と書かれるようになったそうで、吉田さんの方が、年齢が3つ上で入団も6年早かったほか、野球理論も上だと、下馬評では次期監督に有利とされていたそうですが・・・

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後輩の村山実が次期監督に就任することを告げられ心穏やかではいられなかった

1969年11月、吉田さんが、17年目のシーズンを終え、高知県安芸で行われた秋季キャンプで練習をしていると、戸沢一隆球団社長に、フロント陣の宿舎「清月」に呼ばれ、

後藤さんが辞任されるので、来季から監督を村山君にやってもらうことにした。ついては吉田君、君も協力してやってもらいたいのだ

と、村山さんの投手兼監督就任を告げられたそうで、

(下馬評を鵜呑みにしていた訳ではなかったものの)後輩の村山さんが自分を飛び越えて監督になることに、やはり、心穏やかではいられなかったそうです。

「吉田義男は阪神球団社長から突然引退を迫られていた!」に続く

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