幼い頃、道で水兵のグループとすれ違った際、上官であるお父さんに一斉に敬礼している姿を見て誇らしく思い、軍人に憧れるようになったという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんは、中学時代は、海軍兵学校に入ることを夢見て、トレーニングに励んでいたそうですが、やがて、広島県呉市の街は戦争一色となり、原爆投下による黒い雨を見たといいます。

「広岡達朗の幼少期は両親や兄姉の愛情を一心に受けすくすくと育っていた!」からの続き

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中学時代は海軍兵学校を夢見て勉強と運動に励んでいた

幼い頃、道ですれ違った水兵たちが上官であるお父さんに一斉に敬礼している姿を見て、誇らしく思い、軍人に憧れるようになったという広岡さんは、1944年、五番町小学校(現・呉中央学園)を卒業後、呉第一中学校に進学すると、

(呉第一中学校は、運動、勉強ともにレベルが高く、秀才学校と言われていたそうで、海軍兵学校への登竜門だったそうです)

卒業後は、江田島の海軍兵学校に進みたいという夢があったため、学校ではトップを目指し、勉強だけでなく、運動も、校庭をはだしで走り回るほか、砂場では空中回転の練習、うんていは1本飛ばし、鉄棒は、何度もすねをぶつけながら蹴上がりに挑むなど、一生懸命、訓練したそうです。

米軍の大規模空襲を受けていた

そんな中、1945年には、呉市の街は戦争一色となり、春から夏にかけて米軍の大規模空襲を受けたそうで、ある時、防空壕に逃げ込んだ広岡さんは、そこからちょっとだけ顔を出して外を見ると、すごい轟音とともに、戦闘機がバンバンと撃ってきたそうです。

(戦闘機は、パイロットの顔が見えるくらい低空飛行で攻めて来たそうです)

日本には「神風」が吹くと本気で信じていた

また、実はこの頃、戦況が不利になっており、授業どころではなかったそうですが、

(広岡さんは、毎日、工場から学校に材料を運び出してはカンテラなどの照明器具を作っていたそうです)

日本が不利だという発表はなく、仮に、空襲があっても、(当時、米兵のことを「鬼畜米英。あいつらは悪いやつだ」と教えられていたことから)広岡さんは、何かあったら「神風」が吹く、今に日本が反撃するだろうと信じていたのだそうです。

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広島に原爆が落とされ黒い雨が降っていた

そして、8月6日、いつものように学校で作業をしていると、空襲警報が鳴ったため、すぐに防空壕へ隠れたそうですが、何も起こらず、しばらくして、警報も解除されたそうです。

そこで、一旦、外に出てみると、突然、海の方から「ずさー」という音が聞こえてきて、友達が、「広島の方で火薬庫が爆発でもしたのかな」と言ったそうですが・・・

やがて、空には、もくもくと大きな雲がわき、しばらくすると黒い雨が降ったそうで、広岡さんは、「雨、黒いよ」と、誰かと話したことが今でも忘れられないそうです。

(その数日後、玉音放送(天皇の肉声の放送)をラジオで聞いたそうですが、「日本が負けた」と泣く子がいる中、「何で泣くんだろう。日本が負けるはずがないのに」と、日本が負けたことが信じられなかったそうです)

「広岡達朗は少年時代はテニスかバレーボールをしようと思っていた!」に続く

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