1954年、東京六大学野球のスター選手として、鳴り物入りで巨人に入団するも、先輩に打撃を聞いても誰も教えてくれず、途方に暮れていたという、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、正遊撃手だった平井三郎さんに教えを請うと、最初は怪訝な顔をされるも、懇切丁寧に教えてくれたそうで、そのお陰で、平井さんから正遊撃手を奪い、新人王を獲得したといいます。

「広岡達朗は巨人入団当初から川上哲治に嫌味を言われていた!」からの続き

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平井三郎に教えを請うと親切にも教えてくれた

東京六大学野球のスター選手として、鳴り物入りで巨人に入団するも、特に打撃がさっぱりだったという広岡さんは、川上哲治さんほか、先輩に聞きにいったそうですが、川上さんは一瞥しただけで教えてくれず、他の先輩も、教えてくれるどころか、引きずり下ろすことしか考えていなかったことから、当初は途方に暮れていたそうですが、

ある時、正遊撃手で、8歳年上の平井三郎さんという先輩が思い浮かび、

(平井さんは、野球が大好きで、いわゆる「教え魔」のような存在だったそうです)

平井さんに頭を下げて打撃を教えてくれるように頼むと、平井さんは、一瞬、怪訝な顔をしたそうですが、「よし、教えてやる」と承諾してくれたのだそうです。

(平井さんのポジションは広岡さんと同じ遊撃だったことから、もしも、広岡さんが打てるようになれば、平井さんがレギュラーから外されてしまうことになるのですが、平井さんは親切にも教えてくれたのだそうです)

平井三郎のアドバイスで次第に打てるようになっていった

すると、平井さんからは、まず、アマチュアとプロの違いを指摘され、アマチュアの球は素直だが、プロの球は打とうとするところから球が変化する、「だからもっと引きつけろ」と教えられたそうです。

また、本塁の上に、脇から膝の間に長方形でゾーンを示して「そこを通ってから打て」と言われたそうですが、

広岡さんが、

球がストライクゾーンを通ったら手遅れではないですか

と、尋ねると、

平井さんには、

ばか野郎。ヒントを与えたのだから後はてめえで考えろ

と、叱られたそうで、

その後、広岡さんは、グリップの位置が高すぎてバットを速く振ることができないことに気づき、バットをグリップエンドから2握り短く持ち、コンパクトに振るようにすると、次第に打てるようになったのだそうです。

(それまでの広岡さんは、重いバットを長く持ち、振り回していたそうですが、それだと球を引き付けたら、振り遅れていたのだそうです)

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ルーキーで正遊撃手となり新人王を獲得

こうして、平井さんのお陰で打てるようになった広岡さんは、5月には、ルーキーながら、遊撃手のレギュラーになったそうで、最終的には、打撃3割1分4厘、15本塁打、67打点で、新人王を獲得したのだそうです。

また、それまでの遊撃手といえば、職人気質の小兵というイメージがあったそうですが、広岡さんは、180センチの長身で、長い手足を生かした華麗な守備と、強肩強打でファンを沸かせたのだそうです。

(ただ、それまで正遊撃手として活躍していた平井さんは、出場機会が減り、1956年には二塁手に回ったそうですが、1957年には心臓弁膜症を患って現役を引退すると、その後は、コーチやスカウトとして活動していたそうですが、1969年、45歳という若さで他界されています)

「広岡達朗は巨人入団当初に川上哲治を激怒させていた!」に続く

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