長年、阪急ブレーブスでエースとして活躍するも、入団20年目となる1975年、登板機会が減り、2軍落ちしたことで、出場機会を求めて他球団への移籍を申し出たという、米田哲也(よねだ てつや)さんは、シーズン途中に阪神タイガースに移籍するのですが、皆川睦雄投手コーチと登板間隔を巡って揉め、翌年の1976年限りで阪神を退団してしまったといいます。

「米田哲也は400勝を目指して他球団移籍を申し出ていた!」からの続き

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1975年シーズン途中に阪神タイガースに移籍

米田さんは、長年、阪急ブレーブスでエースとして活躍するも、入団20年目の1975年、登板機会が減り、2軍落ちしたことで、出場機会を求めて他球団への移籍を希望すると、受け入れられ、シーズン途中に阪急を退団しているのですが、

大洋と阪神が米田さん獲得に手を挙げたそうで、大洋は条件の上積みを提案するも、米田さんは、単身赴任を避け、阪急と同じ関西の阪神を選んだそうです。

ちなみに、1975年6月23日、入団発表が行われているのですが、タイガースのユニホームを着るのは、1956年、「二重契約騒動」の際に袖を通して以来、実に19年ぶりだったことから、感慨深いものがあったそうです。

阪神ファンには熱狂を持って迎えられていた

そして、同年6月26日、阪神対巨人8回戦(甲子園)の試合前に、5万2千人の大観衆が見守る中、グラウンドの中央に立ち、

阪神の米田です。

タイガースの優勝のため頑張ります。よろしくお願いします

と、挨拶すると、

ウォーという地鳴りのような歓声が起こり、やがて、その歓声は米田さんを包み込み、阪神ファンに熱狂を持って迎え入れられたそうで、

米田さんは、ベンチに戻ると、大きく息を吐いて、「やっぱり、(甲子園は)よう入るな」と思ったそうです。

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阪神タイガースは皆川睦雄投手コーチへの反感からわずか1年半でを退団

そんな米田さんは、同年、阪神では8勝し、阪急での2勝と合わせ、かろうじて2桁勝利を挙げるも、翌1976年には、まさかの2勝のみで、この年限りで阪神を退団(自由契約)します。

実は、米田さんが阪神に移籍した際の一軍投手コーチは、かつてのライバルだった小山正明さんだったそうで、小山さんは、登板間隔に気を使ってくれたことから、調整がやりやすかったそうですが、

小山さんは1975年限りで退団してしまい、1976年、小山さんに代わって投手コーチに就任した皆川睦雄さんとは相性が悪かったそうで、

米田さんは、

阪神に移った時、ピッチングコーチが小山さんやったんです。ライバルだった人でよかった面はありました。登板日も『次、何日』言われたら、それに合わせて調整できましたからね。

例えば、今日いい状態だからと『明日放れ』言われたら放れない。歳が40近くなるとね、1週間後ぐらいなんです。それを小山さんはわかってくれた。わからんコーチはあかんです

(小山さんに代わって皆川睦男さんが投手コーチとなり)それであかんようになった。『今日よかった、明日行ってくれ』ちゅうわけ。ものすごい反感持ちました。『ナニ考えてるんですか?』言うたもんね。無理やっちゅうの、はっきり言うと!

と、いまだ冷めやらぬ怒りを見せつつ語っています。

「米田哲也は近鉄で350勝を達成するも僅か11日後に現役引退していた!」に続く


阪神タイガース時代の米田さん。

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