1985年、阪神タイガースの一軍投手コーチに就任すると、コーチ会議では、吉田義男監督や他のコーチ陣の意見に一人だけ反対したという、米田哲也(よねだ てつや)さんですが、在任中は、右肩を壊していた中田良弘投手を復活させ、中西清起投手をストッパーに推薦するなど、投手コーチとして才能を発揮し、阪神の21年ぶりの優勝に貢献したといいます。

「米田哲也は西本幸雄の推薦で阪神の一軍投手コーチに就任していた!」からの続き

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右肩を壊していた中田良弘投手を復活させていた

阪神の一軍投手コーチに就任すると、いきなり、吉田義男監督が決めたキャンプ規則に噛みついたという米田さんですが、ルーキー時代から期待されるも右肩を壊して力を出せずにいた中田良弘投手に対し、1985年の開幕前、「お前を必ず復活させる」と言うと、

中田さんはその期待に応えるように、8月までに9連勝(中継ぎで4勝、先発で5勝)して、最終的には、リッチ・ゲイル投手に次ぐチーム2位の12勝を記録し、阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝に貢献。さらには、1981年7月21日から1985年8月11日まで、5年がかりで18連勝しています。

(中田投手は、1981年、ドラフト1位で日産自動車から阪神に入団し、「三振の取れる投手」としてルーキーながら抑えの切り札を務め、前半戦6勝5敗8セーブを挙げると、この年のジュニアオールスター(現・フレッシュオールスターズ)でも勝利投手で最優秀投手賞を受賞する活躍をみせたのですが、実は、ジュニアオールスターに出場した際、9回1イニングだけの登板予定が、延長戦となり投げ続けたところ、4イニング目、右肩に激痛が走ったそうで、以降、長く苦しい治療とリハビリの日々となり、休み休み登板することを余儀なくされていたのだそうです)

中西清起投手をストッパーに推薦して阪神の球団史上初の日本一に貢献

また、米田さんは、入団2年目でまだ未知数の若者だった中西清起投手をストッパーに推薦しているのですが、この年、中西投手は、セーブ王を2度獲得していた14年目のベテラン・山本和行投手とダブルストッパーを務めると、見事、19セーブでセーブ王を獲得する活躍をしており、阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝と球団史上初の日本一に貢献しています。

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吉田義男監督と反りが合わず阪神を退団

こうして、投手コーチとして、阪神タイガースのリーグ優勝と日本一に貢献した米田さんですが、1986年の開幕直後にブルペン担当に回されると、吉田監督への反発の気持ちから、シーズン終了後には阪神を退団しています。

ちなみに、米田さんは、1985年、投手コーチだった時、ベンチ内で吉田監督から継投のタイミングを持ちかけられ、「監督にお任せします」と答えて、吉田監督が「わからんから聞いとるんやないか!」と声を荒げることが度々あったそうで、もともと、吉田監督とは反りが合わなかったようです。

(後年、和解したそうです)

「米田哲也が操ったヨネボールとは?」に続く


阪神コーチ時代の米田さん(左)と吉田義男監督(右)。

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