入団5年目の1959年、正捕手に抜擢されると、緻密なリードと守備力で投手陣を牽引し、この年の巨人のリーグ優勝に貢献した、森祇晶(もり まさあき)さんは、1961年には、川上哲治新監督の意向で行われたドジャースとの合同キャンプで、少ない得点を守り抜くという緻密な野球を身につけたといいます。

「森祇晶は別所毅彦の投球練習相手でキャッチングを学んでいた!」からの続き

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一試合5盗塁刺を記録

入団5年目にして、ついに正捕手の座を獲得した森さんは、以降、骨折しても脱臼してもずっと試合に出場し続け、16年に渡り、卓越したリードで、ON(王貞治選手と長嶋茂雄選手)らと共に巨人のV9に貢献しているのですが、

森さんは、盗塁阻止の能力にも優れており、クイックモーションの名手・堀本律雄投手とバッテリーを組んだ試合では、1960~1962年の3年間で、盗塁51企図に対し36盗塁刺(阻止率.706)という驚異的な数字を残しています。

特に、1960年6月1日の大洋戦(川崎球場)では、一試合で企図された5回の盗塁をすべて刺しており、2回大洋の攻撃で、二死一塁から近藤昭選手から盗塁を図られるも二塁で刺すと、続く、3回島田選手、4回近藤和選手、6回沖山選手の盗塁も強肩で阻止。

さらに、7回には、一死一三塁で、重盗(一塁走者の浜中祥和選手が二盗、三塁走者の黒木選手が本盗)を図られるも、森さんの送球をカットした二塁手が素早く本塁に返球して、森さんがタッチアウトし、結果、5人全員の盗塁を阻止しています。

(ただ、1960年は、三原脩監督率いる大洋ホエールズに振り回されて、巨人は2位に終わり(チーム防御率は5位)、森さん自身の打率も1割9分7厘に終わっています)

水原茂監督の後任の川上哲治監督からも守りの要として信頼されていた

さておき、1960年には、水原監督がこの年限りで退任し、1961年からは川上哲治監督となっているのですが、川上監督も森さんの捕手としての頭脳とインサイドワークを高く評価したそうで、森さんを守りの要として信頼したといいます。

(森さんは、1962年には、年間8回企図された盗塁を全て刺しています)

ドジャースとの合同キャンプで緻密な野球を身につけていた

そんな中、1961年には、チーム改革を目指す川上監督の意向で、アメリカ・フロリダ州ベロビーチで、ドジャースとの合同キャンプが行われたそうですが、

キャンプ前には、ドジャースのコーチ、アル・カンパニスさんが書いた「ドジャース戦法」という本を全員に1冊ずつ渡されたそうで、

森さんは、この本を読み込んでから渡米したそうですが、

野球はこんなに複雑なものなんだ

と、すべてが目からウロコだったそうで、

このキャンプで、少ない得点を守り抜くという緻密な野球を身につけたのだそうです。

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ドジャースとの合同キャンプ中は川上監督の部屋で毎日食事しながら教えを受けていた

ちなみに、このキャンプの時には、川上監督に、

とにかく頭の中を空っぽにしろ。そして見るもの聞くものすべてを吸収しろ。それが教わるということだ

と、言われたそうですが、

森さんは、直にドジャースの練習方法や考え方を学びに行くのだから、固定観念を捨てて謙虚になれということだと理解したそうです。

また、このキャンプでは、練習が終わると、毎日、川上さんの部屋に呼ばれたそうで、川上さんが持ち込んだ電気釜で米を炊き、新聞紙を皿代わりにして海苔の佃煮と一緒にごはんを食べながら、「勝つためにチームプレーがいかに大事か」「捕手のサインひとつでみんなが動くんだ」などと、こんこんと説かれたのだそうです。

「森祇晶は川上哲治監督から頭を下げられていた!」に続く

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