1956年、17歳の時に、「復讐のせむし男」で漫画家デビューすると、以降、少女漫画・少年漫画誌などで次々と作品を発表し、1968年には、劇画作家である高森朝雄(梶原一騎)さんとタッグを組んだ、ボクシング漫画「あしたのジョー」が連載中から反響を呼び、社会現象を巻き起こす大ヒットを記録して、一躍、人気漫画家の地位を不動のものにした、ちばてつやさんですが、実は、そんなちばさんの弟たちは全員漫画に携わっていたといいます。

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年齢は?出身は?本名は?学歴は?

千葉さんは、1939年1月11日生まれ、
東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)の出身、

本名は、千葉徹彌(読み方同じ)、

学歴は、
墨田区立小梅小学校
⇒日本大学第一高等学校卒業

ちなみに、俳優の千葉哲也さんは別人です。

一番上の弟・千葉研作は「ちばてつやプロダクション」のマネージャーだった

千葉さんは4人兄弟の長男なのですが、実は、弟さんは、全員、漫画に携わっていたそうで、

まず、一番上の弟さんは、千葉研作(ちば けんさく)さんといい、漫画家を経て、「ちばてつやプロダクション」のマネージャーを務めていたそうです。

(現在は退職されているようです)

二番目の弟・ちばあきおは漫画家で「キャプテン」「プレイボール」などがヒットするも首吊り自殺

二番目の弟さんは、漫画家のちばあきおさん(本名は千葉亜喜生)です。

あきおさんは、中学卒業後は、高校は夜間学校に通い、昼間は玩具製造工場に勤めていたそうですが、身体を壊し退社すると、療養中に、兄・ちばてつやさんのアシスタントを始めたそうで、


在りし日のちばあきおさん。

やがて、てつやさんの影響で漫画家を志すようになると、1967年には、少女雑誌「なかよし」掲載の「サブとチビ」で漫画家デビュー。

その後、各少年少女雑誌に読み切り作品を発表すると、1972~1979年には「キャプテン」、1973~1978年には「プレイボール」など、ひたむきで明朗な少年たちを描いた作品で人気を博し、「魔球」中心だった野球漫画に新境地を開きました。


キャプテン


プレイボール

しかし、あきおさんは、双極性障害(躁うつ病)を患い、1984年9月13日、41歳の時、仕事場2階で自ら首を吊って絶命。

てつやさんは、書籍「ちばあきおを憶えていますか」で、

あきおがいなくなって、わたしのその後の人生は本当に寂しくなった。
(中略)
父・正彌をはじめ千葉家の人間は皆、個性的だ。だから、なおさら、あきおが欠けたあとは「1色足りない虹」のように思えてならない

と、亡きあきおさんを偲んでいます。


ちばあきおを憶えていますか

(書籍「ちばあきおを憶えていますか」の著者は、あきおさんの長男・千葉一郎さんです。また、2017年には、漫画家のコージィ城倉(じょうくら)さんにより、「キャプテン2」が39年ぶりに「グランドジャンプ」で復活しています)

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三番目の弟・七三太朗は漫画原作者

三番目の弟さんは、漫画原作者の七三太朗(なみ たろう、本名は千葉樹之)さんで、


Dreams


風光る


4P田中くん


イレブン

などの作品を発表しています。

「ちばてつやは幼少期は父親の仕事で満州国で暮らしていた!」に続く

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