幼い頃から、おじいさんの二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)に、「猿之助はお前が継ぐのだ」と言われ続けてきたにもかかわらず、大学卒業後、そろそろ襲名という時になると、急に惜しくなったのか渋られ、自ら考案した「初代市川雪之丞」を襲名することになったという、二代目市川猿翁(にだいめ いちかわ えんおう)さんですが、襲名の3か月前、死を予感したというおじいさんから急に呼ばれ、猿之助を継いでほしいと言われたといいます。

「市川猿翁(2代目)は猿之助ではなく雪之丞を襲名するはずだった!」からの続き

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初代市川雪之丞襲名3ヶ月前に死を予感した祖父に猿之助を継いでほしいと言われていた

自ら考案した「初代市川雪之丞」を襲名することになったという猿翁(当時は團子)さんですが、襲名の3ヶ月前、急に、おじいさんの二代目市川猿之助(初代市川猿翁)さんに呼ばれ、

猿之助を継いでくれ、頼む

と、言われたといいます。

祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)が倒れる

というのも、おじいさんによると、金の矢が頭にぐさりとささる夢を見て、死を予感したのだそうです。

すると、実際、予言は的中し、猿翁(当時は團子)さんが猿之助を襲名する前に、浅草寺でお練(ね)りをした1963年4月20日、おじいさんは心臓病で倒れてしまいます。

(公演は休演となり、急遽、演目や配役が変わったそうです)

祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)の当たり役「黒塚」の鬼女をやらせてほしいと直談判していた

実は、1963年5月に行われる予定だった、猿翁(当時は團子)さんの猿之助襲名公演では、おじいさんは、舞踊「黒塚」の当たり役の鬼女を披露するはずだったため、松竹や親族は大叔父の八代目市川中車さんを代役にと考えていたそうですが、

猿翁さんが、おじいさんが入院している聖路加病院へ駆けつけ、

(「黒塚」の鬼女を)僕にやらしてください。手順は知っています。今すぐできます。技術はつたなくても精神(こころ)だけは伝えます

と、訴えると、

おじいさんは、猿翁さんをじっと見据え、

できるか

と、尋ねたそうで、

猿翁さんが、「はい」とうなずくと、「ヨシ、やってみろ」ということになったのだそうです。

(おじいさんが初めて「黒塚」を演じたのは50歳の時だったそうで、猿翁さんは、自分がその年になるまでおじいさんは生きてはいないからと、かねてより、見て覚えておこうと思っていたそうで、今回、恥をかいてもやることが使命だと感じたのだそうです)

自身の猿之助襲名披露公演で「黒塚」の鬼女を無我夢中で演じて成功させていた

こうして、猿翁(当時は團子)さんは、おじいさんの踊りを何でも知っている弟子の市川猿三郎さんに三日三晩教わると、自身の猿之助襲名披露公演(本番)で、「黒塚」の鬼女を無我夢中で演じて、無事に成功させ、「三代目市川猿之助」を襲名したのだそうです。

(「黒塚」は奥州安達原の鬼婆伝説に由来するのですが、おじいさんはこれにロシアン・バレエの感覚を取り入れて一大傑作としたそうです)

ちなみに、この「黒塚」が開幕する時刻になると、おじいさんは病院のベッドに起き上がって目をつむり、無事成功するように手を合わせ、1時間13分、ずっと念じ続けてくれていたそうで、猿翁さんは、おじいさんの一念が、鬼女の踊りを踊らせてくれたような気がしてならなかったそうです。

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祖父・二代目市川猿之助(後の初代市川猿翁)が他界

また、千秋楽の数日前には、おじいさんが、輿(こし)にかつがれて歌舞伎座に観に来てくれたそうで、終演後、猿翁さんがおじいさんの病床に駆けつけると、

おじいさんには、

月の踊りの杖(つえ)の先が描く線をもう少しゆるやかに。ギクッとするところが1カ所ある

と、少しだけ注意されたそうですが、

おじいさんは、なかなか褒めてくれない人だったため、むしろホッとしたそうです。

そして、おじいさんは、

お前もどうやら役者になれそうだ

と、ポツンと言い、

おれはこの年になって『黒塚』を初めて客席から見たが、もうひとひねり必要だナ。何か足りない。これはお前が見つけてくれ

と、言ったそうで、

それから1ヶ月も経たない1963年6月12日、おじいさんは他界されたのだそうです。

「市川猿翁(2代目)は祖父と父を亡くすも他門には入らなかった!」に続く

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