1975年、大学2年生の時、日米大学野球選手権の全日本メンバーに選ばれ、試合が行われるアメリカへ向かう日航機の中で、国際線の客室乗務員を務めていた正子さんと知り合うと、飛行機を降りた後も正子さんが忘れられず、正子さんの宿泊しているホテルを調べて押しかけたという、江川卓(えがわ すぐる)さんは、帰国後、さっそく、正子さんの自宅に電話すると、電話口に出たお母さんが大の野球通で江川さんのことを知っていたことから、家に招かれ、以来、遊びに行くようになったといいます。

江川卓と妻の正子

「江川卓の妻との馴れ初めは?JAL国際線の客室乗務員だった!」からの続き

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正子と別れて2日後には自宅に電話していた

江川さんは、正子さんから、別れた日の翌日にフライトだと聞いていたことから、別れてから2日後には、てっきり、もう日本に帰国していると思い、正子さんにもらった(正子さんの実家の)電話番号にロスから国際電話をかけたそうですが、正子さんはまだ帰国していなかったそうで、

(正子さんはホノルル経由でまだ空の上だったそうです)

とんだ肩透かしを食らったものだと、内心がっかりしたそうです。

正子の母親は大の野球通で「法政大の江川卓」を知っていたことから自宅に招かれていた

ただ、江川さんが電話をかけた際、「アメリカでお世話になった江川と申しますが・・・」と言うと、(大の野球通だった)お母さんが電話に出て、「娘はまだ帰っておりませんが、江川さんって、あの法政の江川さん?」と江川さんのことを知っており、「日本へ帰っていらしたら、一度家に遊びにいらっしゃい」と言ってくれたそうで、

(一方、肝心の正子さんは、江川さんの顔も名前も知らなかったそうです)

江川さんは、日米大学野球を終えて帰国した翌日、もう何の遠慮もなく、東京・新宿区弁天町にある正子さんの実家をさっそく訪れると、このことがきっかけで正子さんと仲良くなったのだそうです。

(とはいえ、この時はまだ、交際していたわけではなかったそうです)

正子の実家は常に多くの若者が出入りしていたことから溶け込むことができた

ちなみに、正子さんのお父さんの菊地文男氏は、東京都の教育行政に長く携わり、都立高校の校長や東京家政大学の教授を務めたこともあったそうで、無口で学者タイプながら、教え子だけでなく、広く若者たちの人生の相談役になるなど、学生たちから人望が厚く、お母さんは、気さくな社交家だったことから、菊地家には常に多くの若者たちが出入りしていたそうで、

正子さんによると、正子さんが幼い頃から、食事の時には必ず誰かよそのお兄さんたちが家族と一緒に食卓を囲んでいたとのことで、

正子さんの家庭が一般の家庭とは異なる少し特殊な家庭環境だったおかげで、女性に慣れていない江川さんでも、すんなりと菊地家に溶け込むことができたのだそうです。

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正子が休みのたびに正子の自宅を訪れ、仲良くなっていった

こうして、菊地家に出入りするようになった江川さんは、正子さんが休みになると、菊地家を訪れ、みんなで食事をし、食事を終えると、正子さんに車で合宿所まで送ってもらうようになったそうですが、

正子さんは、その時のことを、

はじめのうちは私の方が主導権を握っている感じだったのに、3ヶ月くらいたつと、立場が逆転していました。そして何となくそういうような、恋愛関係のような雰囲気になったのは、半年くらいしてからでした

と、語っています。

「江川卓は妻と交際中に妻の実家で暴力を振るっていた!」に続く

江川卓と妻の正子
江川卓さんと妻の正子さん。

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