1984年は開幕から調子が上がらず、4番⇒5番⇒6番と降格させられると、8月には、ついに3試合連続で休養を命じられたという、山本浩二(やまもと こうじ)さんは、その悔しさをバネに発奮し、8月8日時点で2割4分7厘まで下がっていた打率を、シーズン終了時には2割9分3厘まで戻す活躍で、広島カープの4度目のリーグ優勝に大きく貢献しているのですが、実は、そんな山本さんの性格を熟知していた古葉監督に上手く操縦されていたことに気付いたといいます。

山本浩二と古葉竹識

「山本浩二は持病の腰痛をかばいつつ本塁打王(4度目)を獲得していた」からの続き

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山本浩二は1984年は開幕から不調で6番に降格されるも、5番の長内孝が敬遠されると、意地の3ランを放っていた

山本さんは、1984年は、開幕から調子が上がらず、6月15日の中日戦から5番に下げられると(8年ぶり)、なおも不振は続き、8月7日の巨人戦では、ついに6番に下げられてしまったそうです。(11年ぶり)

そして、この巨人戦では、2対2で迎えた8回一死三塁の場面で、5番の長内孝選手が目の前で敬遠される屈辱。

これには、さすがの山本さんも腹が煮えくり返ったそうで、西本聖投手のシュートを狙い、左中間スタンドへ決勝3ランを放ったそうです。

山本浩二は4番⇒5番⇒6番と降格したうえ3試合も休養させられ10日ほど古葉竹識監督と口をきいていなかった

ただ、翌8日からは、またしても2試合ノーヒットで打率は2割4分7厘まで降下。

そこで、山本さんは、次の大洋3連戦から仕切り直そうと思っていたそうですが…

大洋3連戦の初戦の練習前、この年から一軍打撃コーチになった1年後輩の内田順三さんが申し訳なさそうな顔で、「浩二さん、今日は休みです」と言ってきたそうで、

山本さんは「えーっ」と思いながらも、調子が調子だから仕方ないと受け入れたのだそうです。

しかし、次の日もその次の日も休養を命じられたそうで、さすがに、4番⇒5番、5番⇒6番と降格したうえ、3試合も干されたことに、山本さんは悔しくてたまらず、古葉竹識監督とは10日ほど口をきかなかったのだそうです。

山本浩二は悔しさをバネにして好調を取り戻し広島カープ4度目のリーグ優勝に大きく貢献していた

そんな山本さんは、遠征から広島に戻り、ようやくスタメンに復帰すると、以降、38試合でノーヒットはたったの5試合と絶好調となったそうで、当然、打順も、6番⇒5番⇒4番と上がり、打率も2割9分3厘まで戻したのでした。

そして、10月4日の大洋(現・横浜)戦では、0対2とリードされて迎えた6回無死一三塁の場面、関根浩史投手から左翼席へ逆転決勝3ランを放って4度目のリーグ優勝を決め、世代交代の波が押し寄せる中、その存在感を示したのでした。

(山本さんはこの時、思わず、ネット裏の放送ブースでNHKラジオの解説をしていた友人の星野仙一さんに向けてガッツポーズをしたそうです)

ガッツポーズする山本浩二
ガッツポーズする山本さん。

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古葉竹識監督が山本浩二を3試合外したのはプライドを刺激して発奮させるためだった

ちなみに、広島カープが優勝を決めた数日後、古葉竹識監督から、夏場に3試合外した理由について、

後半必ず大事な時が来る。その時頑張ってもらうために休ませたんだ

と、聞いたそうですが、

実は、さかのぼって1975年8月7日のヤクルト戦、山本さんは、腰痛がひどく、今日は休みかなと思っていると、スタメン表に名前が書かれていたことから試合に出たそうですが、

7対7で迎えた8回一死三塁の場面で打席が回ってくると、古葉監督がベンチから出てきて、「スクイズするか?」と言ってきたそうで、

この言葉にカチンときた山本さんは、「打ちます」と言って、石岡康三投手のフォークを右翼席へ決勝2ランホームランを打っていたのだそうです。

つまり、古葉監督は、山本さんはプライドを刺激すれば発奮することを知っていたのでした。

(古葉監督は「耐えて勝つ」を座右の銘としており、主力選手がへそを曲げかねないことでも、よかれと思えば平然とできる監督だったそうです)

「山本浩二は2000安打500本塁打200盗塁を大卒で達成していた!」に続く

山本浩二と古葉竹識
古葉竹識監督(左)と山本さん(右)。

お読みいただきありがとうございました

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