1953年2月13日、仕切り直して、阪急ブレーブスに入団した、米田哲也(よねだ てつや)さんは、1年目から9勝すると、2年目には21勝し、以降、19年連続2桁勝利を記録するほか、1966年には25勝で最多勝、1968年には自己最高の29勝と、大車輪の活躍で、左のエース・梶本隆夫投手とともに「ヨネカジコンビ」と呼ばれ、阪急の黄金時代を築き上げます。

「米田哲也が阪急を選んだのは背番号18をくれたからだった!」からの続き

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19年連続で2桁勝利し僅か11年で200勝を達成していた

1953年2月13日、仕切り直して、阪急ブレーブスに入団した米田さんは、1年目の1956年から51試合に登板して9勝をマークすると、2年目の1957年には21勝、防御率1.86(リーグ3位)で、早くもエースとなり、

1962年には奪三振王(231奪三振)、1966年には最多勝(25勝)を獲得するほか、1966年8月には僅か11年目にして早くも200勝を達成。

1968年には自己最高の29勝を挙げてMVP(最優秀選手)に輝くなど、19年連続で2桁勝利を記録して、左のエース・梶本隆夫投手とともに「ヨネカジコンビ」として活躍し、阪急の5度のリーグ優勝に大きく貢献します。

(それまで、阪急は、「灰色の球団」と揶揄されるほど低迷していたそうです)

初登板&初先発は無失点も「ルーキーが勝ち星はあかん」と勝利投手寸前の4回2/3で交代させられていた

ちなみに、米田さんの初登板&初先発は、1956年4月3日、茨城・水戸市の堀原公園野球場で行なわれた大映スターズ戦で、立ち上がりから無失点に抑えていたそうですが、

3回に阪急が1点を先制していたことから、なんと、首脳陣に、「ルーキーが勝ち星はあかん」と言われ、勝利投手の権利を手にする寸前の、4回2/3で交代させられてしまったそうで、

米田さんは、後年、

そこで勝ってたら10勝やったの。だから1年目、9勝15敗なんです。で、入団以来、20年連続二桁勝利ができなかった。それを思い出しましたよ、終わり頃は。はっはっは

と、笑いながらも、悔しそうに語っています。

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プロ4打席目で満塁ホームランを放ち「満塁弾の最短記録」となっていた

そんな米田さんは、2度目の登板となった1956年4月11日の高橋ユニオンズ戦(西宮球場)では、3失点完投でプロ初勝利を果たしているのですが(11対3)、

3回には、プロ4打席目にして満塁本塁打を放ち、打撃でも活躍しており、

米田さんは、

130メートルは飛んだはずや。『プロでは打者でやってくれ』って言われるくらいバッティングも得意だったんや

と、語っています。

(1983年に巨人の駒田徳広選手がプロ初打席満塁本塁打を放つまで、「満塁弾の最短記録」だったそうです)

「米田哲也は阪急の10年選手ボーナスへの不満からトレードを希望していた!」に続く

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