阪急ブレーブス、大阪(阪神)タイガースと二重契約するも、阪神に入団したつもりで、1956年1月10日から、甲子園球場で行われた阪神の合同自主トレに参加していた、米田哲也(よねだ てつや)さんですが、その後、井上登コミッショナーの裁定により、阪急への入団となります。ただ、実のところ、井上登コミッショナーから希望を聞かれ、背番号18を用意してくれていた阪急への入団を希望していたのだそうです。
「米田哲也は阪急と阪神の両方と(二重)契約していた!」からの続き
井上登コミッショナーの裁定により阪急に入団
阪急ブレーブス、大阪(阪神)タイガース、両球団と(二重)契約してしまうも、阪神に入団したつもりで、1956年1月10日、阪神のユニホーム(背番号「41」)を着て、甲子園球場で行われた阪神の合同自主トレに参加していたという米田さんですが、
しばらくして、コミッショナー事務局から、
裁定が出るまで練習に参加しないように
と、ストップがかかったそうで、
同年2月13日には、元最高裁判所判事の井上登コミッショナーの裁定により、阪急への入団となったそうです。
(前年1955年12月27日に、阪急が、「ウチが先に契約を交わしている」とコミッショナー事務局へ提訴していたそうです)
実は米田自身がエースナンバーの背番号18を用意してくれた阪急を選んでいた
ちなみに、井上コミッショナーは、この裁定について、
米田君の契約は阪神、阪急ともに対面契約であり、書類に不備はない。しかし、阪急の方が早い時期に契約を結んでおり、優先しなければいけない
と、語っていたのですが、
米田さんは、
1週間、阪神のユニフォームを着て練習もしました。二重契約と騒がれ、最後はコミッショナー事務局に、どっちに行きたいと聞かれて。給料は安かったけど、背番号18をもらえるならと阪急を選びました
と、語っており、
実際は、事前に井上コミッショナーから希望を聞かれ、米田さんの希望で阪急入団となっていたそうです。
そんな米田さんは、後年にも、
(金銭面の条件は阪神の方が良かったが)背番号や。阪急はボクにエースナンバーの18を用意してくれていた。それに僕も子供やったから
と、笑いながら明かしています。
阪急に入団するとすぐに西村正夫監督や井野川利春投手コーチに絶賛されていた
さておき、1956年、阪急に入団しなおし、高知キャンプに参加した米田さんは、いきなり150球の本格投球を披露して首脳陣を驚かせたそうで、
西村正夫監督は、
梶本と並んで将来、阪急を背負う投手になる
井野川利春投手コーチも、
猫はいくら育てても猫だが、米田は虎。育て甲斐がある
と、絶賛したそうです。
打撃も凄まじく打者転向を勧められていた
また、米田さんは、投球だけではなく、打撃の方も凄まじかったそうで、
(打撃練習では、チームの長距離砲だった中田昌宏選手よりも打球を飛ばしていたそうです)
当初、打者転向を勧められたこともあったそうですが、
打者としてダメだったらそこまでだが、投手としてダメでもそこから打者としてやっていくことはできる
と、投手としてやっていくことにしたのだそうです。
(実際、米田さんは、投手ながら通算33本塁打を記録しており、これは、投手で最多本塁打記録を持つ金田正一さんの通算36本に次ぐ記録となっています)
初めて西宮球場を訪れた際にはその立派さに驚いていた
ちなみに、米田さんは、阪急入団が決まり、初めて西宮球場を訪れた際、田園風景が広がる中、日本初の上層スタンドを備えた巨大な球場がそびえ立っているのを見て驚いたそうで、
田舎の小さい球場しか知らんかったから、『えらい立派やな』と思った。
と、語っています。
ただ、
実際にグラウンドに立つと石ころがいっぱい落ちててな。みんなでよく拾ったもんや。イレギュラーが怖くて外野手が後ろに守るから、普通のセンター前ヒットがツーベースになる。そんなん考えられる?
とも、語っています(笑)
「米田哲也は19年連続で2桁勝利し僅か11年で200勝を達成していた!」に続く