NPB(日本プロ野球)とMLB(メジャーリーグ)で驚異的な記録を残したイチローさんですが、今回は、そんなイチローさんが野球をやるきっかけを作り、幼い頃からつきっきりで練習に付き合い、導いてきた、父親の”チチロー”こと鈴木宣之(すずき のぶゆき)さんの若い頃から現在までの生い立ちや経歴・職業を時系列でご紹介します。

鈴木宣之

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イチローの父親チチロー(鈴木宣之)のプロフィール

鈴木宣之さんは、1942年12月8日生まれ、
愛知県名古屋市熱田区の出身、

学歴は、
私立東海学園中学校・高等学校
⇒芝浦工業大学工学部二部卒業

ちなみに、鈴木宣之は本名です。

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は小学生時代は野球が上手だった

イチローさんの父親の”チチロー”こと鈴木宣之さんは、父・銀一さんと母・ひささんのもと、5人兄弟(兄3人、姉1人)の末っ子として誕生すると、両親にとてもかわいがられ、放任主義ではないものの、自由にのびのびと育てられたそうです。

そんな鈴木宣之さんは、小学4年生の時、野球を始めると、小学5年生の時には、学校の野球部に入部し、レフトかピッチャーを任されたそうですが、6年生の先輩にエースがいたことから、もっぱら控え投手だったそうです。

しかし、1年後には、4番でエースを任されるようになり、さらには、得意の足の速さを生かして活躍したそうです。

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は小学6年生の時に野球の強豪校への進学を勧められていた

そして、小学6年生の夏が終わったある日には、担任で野球部の監督の服部功先生から、

鈴木、中学でもこのまま野球を続けてはどうだ。先生はおまえに将来性があると思っている。中学進学は、野球の強い学校がいい。ひとつ、中京商業の中等部へ行って野球をやってみないか

と、言われたそうで、

野球が大好きで、将来、何らかの形で野球を続けたいと思っていた鈴木宣之さんは、天にも昇る気持ちになったといいます。

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は中学生時代に野球強豪校への進学を両親に反対され泣く泣く断念していた

こうして、喜び勇んで飛ぶように家に帰った鈴木宣之さんは、これまで、自分がやりたいことを両親に反対されたことがなかったため、賛成してくれるものと期待して、先生のありがたい話を両親に伝えたそうですが・・・

両親には反対され、泣く泣く断念したのだそうです。

というのも、両親は、鈴木宣之さんの実力では野球の強い学校で通用しないと思ったほか、当時、プロ野球は、まだ「職業野球」と蔑(さげす)まれていた名残があったことが反対の理由だったのだそうです。

(当時、野球といえば大学野球が人気で、プロ野球は、お金をとって野球を見せる職業野球と呼ばれ、蔑まれていたそうです)

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は愛知県下で有数の進学校(中学)に進学するも野球への夢を断ち切ることができなかった

そんな鈴木宣之さんは、両親の勧めに従い、愛知県下で有数の進学校である私立東海学園中学校に進学するも、野球への夢を断ち切ることができず、改めて両親に野球部入部を申し出たそうですが・・・

やはり、両親の反対に遭ってしまったそうです。

(両親には、せっかく進学校に入ったのに勉強もせずに野球に打ち込まれては困る、という思いがあったそうです)

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は高校時代に念願叶い野球部に入部していた

その後、両親の意向に従い、3年間勉強に勤しんだ鈴木宣之さんは、中学校卒業後は、私立東海学園高校に進学したそうですが、

高校1年生の春、新学期が始まって間もないある日のこと、学内でクラス対抗のソフトボール大会が行われたそうで、鈴木宣之さんが、まるで水を得た魚のようにハツラツとグラウンドを駆け回ると、そんな姿に目を留めた野球部員に野球部に入らないかと誘われたそうで、

再び、鈴木宣之さんが、両親に野球をやらしてほしいと頼むと、さすがに両親も3度目ということで、半ばあきれながらも野球部の入部を許可してくれ、ついに、鈴木宣之さんは、野球部に入部することができたのだそうです。

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は高校2年生の時に耳に死球を受け恐怖心が消えなくなっていた

しかし、1959年4月3日、高校2年生の時、春のリーグ戦で、バッターボックスに立った際、相手投手の投じた球が左耳の下を直撃し、グラウンドに倒れ込んでしまったそうで、

ゲームが終了するまで教室で安静にした後、病院に運び込まれると、脊髄の髄液にまで出血が達するほどの脳内出血を起こしていたそうで、1ヶ月の入院生活を余儀なくされたのだそうです。

(退院できたのは5月5日の子供の日だったそうです)

そして、高校2年生の1年間、野球部を休部し、3年生から復帰したそうですが、ボールに対する恐怖心が消えず、バッターボックスに立っても以前のようにボールに向かっていく気迫が完全になくなり、野球に対する情熱も消え失せてしまったのだそうです。

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は大学卒業後は、伯父の経営する会社に就職していた

その後、鈴木宣之さんは、高校卒業後、芝浦工業大学工学部に進学し、大学卒業後は、伯父さんの経営する会社(いわゆる同族会社)に就職したそうですが、

ある日のこと、ある社員に、

宣ちゃんはいいよな。黙ってても偉くなれるんだから

と、言われたそうで、

その時は、顔では笑って返したものの、周囲の人にそういう風に見られていたのだと気づき、知らず知らずのうちに呑気(のんき)にやっていたのかもしれないと反省しつつ、この一言は強烈に心に刺さり、サラリーマン社会の難しさやいやらしさを思い知ったのだそうです。

イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は26歳で伯父の会社を退職し28歳の時に機械製造部品会社を創業していた

こうして、果たしてこのままでいいのだろうか、との疑問が芽生え始め、仮に一生懸命頑張って偉くなったところで、周りは決してそうは見てくれず、伯父さんが社長だから当然だろうと言うだろうと思った鈴木宣之さんは、漠然とした考えではあったものの、自分の力で何かやらなければ、と思うようになっていったそうで、

そんな中、上司に、仕事を離れた部分で、非難や嫌味を執拗(しつよう)に言われたことがきっかけとなり、入社して3年後の1968年、26歳の時、伯父さんの会社を退職すると、

1年ほど知り合いの会社を手伝った後、1970年、28歳の時、機械製造部品会社(電気工具のスプリングを作る会社)を創業したのだそうです。

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イチローの父親チチロー(鈴木宣之)は現在は「オフィス・イチロー」と「ビー・ティー・アール」の社長

そんな鈴木宣之さんは、1966年に淑江さんと結婚しているのですが、1968年には長男の一泰さんが、1973年には次男の一朗(イチロー)さんが誕生しています。

そして、イチローさんがプロ野球選手として大ブレイクした1994年には、イチローさんの個人事務所、有限会社オフィス・イチローを設立すると、その後、イチローさんの展示ルームの運営を主業務とした、有限会社ビー・ティー・アールも設立し、現在、鈴木宣之さんは、2つの会社の社長を務めています。

お読みいただきありがとうございました

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