高校2年生の秋頃には、打球が90メートル以上飛ぶようになったものの、まだバッティング技術に乏しく、センター方向にしか打てなかったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、実は、守備のショートでも、エラー(トンネル)の連続だったといいます。

「長嶋茂雄が高校生の頃はセンター方向にしか打てなかった!」からの続き

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ショートの守備ではエラーを連発していた

高校時代は、バッティングの技術に乏しく、センター方向にしか打つことができなったという長嶋さんは、守備の方でも、肩には自信があったものの、腰高で、よく派手なトンネルをやって、加藤哲夫監督に叱られていたそうで、

(加藤監督は長嶋さんたちよりも5歳年上で、立教大学の野球部にいたそうです)

1953年6月、高校3年生の時、市川高校のグランドまで練習試合をしに行き、3校リーグ戦で2試合やった際には、第1試合ではトンネルのおまけつきで4つもエラーをしてしまい、それがバッティングにも響いてノーヒットに終わったそうです。

(実は、4月に、千葉県銚子市の市営球場で行われた試合でもエラーをしてしまい、そのヘマを意識しすぎて、かえってコチコチになってしまったそうです)

5回目のトンネル後、ショートからサードに変えられていた

そして、第2試合が始まっても、長嶋さんは、その時のミスを気にしていたことから、またまた、トンネルをしてしまったそうで(5回目)、ついに、加藤監督は顔を真赤にして激怒。審判のところへ小走りに駆け寄ると、

タイム!ショートの長嶋をサードに・・・。サードの鈴木はショートにもっていきます

と、言ったそうで、

長嶋さんは、唇をかみしめて、すごすごと初めてサードへ移動したのだそうです。

(その時の佐倉一高のサードは、鈴木英美さんという人だったそうで、後にノンプロ(東京ガス)に入ったそうです)

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サードでの思いがけないファインプレーで「サード・長嶋」となった

すると、長嶋さんがサードに代わったばかりの6回、市川高のバッターがたたきつけた打球が、砂を噛んで長嶋さんの右側を襲ってきたそうで、サード・キャンパス際を抜けそうなヒット性の打球だったそうですが、

長嶋さんはとっさに体当たりでこの打球に飛びつくと、がっちりと押さえ、体を一転させて鉄砲玉のような送球をファーストに送るファイン・プレーでアウトにしたそうで、

以来、この、急ごしらえのサードでの思いがけないファイン・プレーにより、長嶋さんは、「サード・長嶋」と称されるようになったのだそうです。

ちなみに、長嶋さんは、著書「燃えた、打った、走った!」で、

しかし、運命というのは不思議なものだ。もうダメか、と思った土壇場に、突然パッと運がひらけることが多い。ピンチとチャンスはつねに背中合わせになっている。

問題は、どうやってそのチャンスをつかむかだ。このピンチに、ぼくがつかんだチャンスの芽は、サード・キャンパスぎわをあわや抜けるかと思われたヒット性の打球だった。

と、綴っています。

「長嶋茂雄は高3の夏に千葉代表で南関東大会に出場していた!」に続く


燃えた、打った、走った!

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