1962年、8歳の時、「横掃江南七霸天」で子役デビューすると、以降、200本以上の映画に出演し、アクション映画界のトップスターの座にまで上り詰めた、ジャッキー・チェン(成龍)さんですが、

幼少期には、貧しかった両親に半ば身売りされる形で「中国戯劇学院」に預けられると、そこでは、京劇役者になるために過酷な訓練に励む日々を送り、やがて、「七小福」という子役集団の選抜メンバーとして活躍するも、

時代の流れの中、「中国戯劇学院」が閉鎖に追い込まれ、17歳で、アクション映画のスタントマンに活路を見出したといいます。

今回は、そんなジャッキー・チェンさんの、悲惨すぎる生い立ち(幼少期からスタントマン時代)をご紹介します。

ジャッキー・チェン

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ジャッキー・チェンのプロフィール

ジャッキー・チェンさんは、1954年4月7日生まれ、
イギリス領香港の出身、

身長174センチ、

血液型はAB型、

学歴は、
ナンホア・アカデミー小学校退学
⇒中国戯劇学院(途中で閉鎖)

ちなみに、ジャッキー・チェンさんの本名は、「房仕龍(ファン・シーロン)」で、出生名は「陳港生(チャン・コンサン)」なのですが、「陳港生」とは、「香港生まれのチャン(陳)」という意味があるそうです。

また、ジャッキー・チェンさんは、出生時、12ポンド(約5キロ)もある大きな赤ちゃんだったことから、両親からはポーポー(大砲)と呼ばれていたそうです。

ジャッキー・チェンの幼少期が悲惨過ぎる

ジャッキー・チェンの幼少期は極貧だった

ジャッキー・チェンさんは、お父さんのチャールズ・チャン(陳志平)さんとお母さんのリーリー・チャン(陳莉莉)さんのもと香港で誕生するのですが、

お父さんとお母さんは、ジャッキー・チェンさんが誕生する前に、中国大陸の共産主義革命から逃れるため英国の植民地である香港にやってきたため、極貧で生活は苦しかったそうです。

ちなみに、ジャッキー・チェンさんは、自分の姓はチェン(陳)で、一人っ子だと思っていたそうですが、

2001年に、お父さんから、

  • お父さんは中国国民党のスパイとして活動していた
  • お父さんは戦争が集結して共産党が天下となると、追っ手から逃れるために中国大陸から香港に渡っていた
  • お父さんは改名し、治外法権だった在香港米領事館で住み込みの料理人として働いていた
  • 自分(ジャッキー・チェン)の本名は「房仕龍(ファン・シーロン)」だった
  • 自分には兄弟がいた(お父さんは中国大陸にいる時に妻子がいた)
  • お母さんは、生活のためにアヘンを密輸し、売っていた

と、初めて知らされたそうです。

(中国大陸では、日中戦争の時から、毛沢東が率いる共産党と蒋介石が率いる国民党が互いに覇権をめぐって争っていました)

ジャッキー・チェン
赤ちゃんの頃のジャッキー・チェンさん。

ジャッキー・チェンは小学校を退学になっていた

ジャッキー・チェンさんは、幼少期から、苦労と規律を重んじるお父さんからカンフーを学んだそうですが、両親にあまりかまってもらえない寂しさから、友達とケンカばかりし、シンナーを吸ったり、盗みをする、良くない連中と付き合っていたそうです。

そして、小学校へ行ってもまったく勉強せず、落第し、最後には退学となったのだそうです。

ジャッキー・チェンは7歳の時に両親に「中国戯劇学院」に身売りされていた

ジャッキー・チェンさんは、1961年、7歳の時、お父さんがオーストラリアのアメリカ大使館で料理人として働くことが決まったため、京劇学校である「中国戯劇学院」に預けられると、入門1日目から京劇や中国武術などの過酷な特訓が始まったそうですが、

特訓は朝の5時から夜の11時まで、昼食と夕食で休憩を取る以外は1日中行われたそうで、言うことを聞かなければ杖で殴られたり、病気になっても稽古を強制されるという、過酷極まりないものだったそうです。

ちなみに、「中国戯劇学院」は、主に貧困家庭の子供たちを全寮制で引き取って京劇役者に育てる学校で、両親は、学校に子どもの生死を預ける「生死状」と呼ばれる同意書にサインしたといいます。

つまり、この同意書は、もし就学中に病気になったり死亡しても「学校は一切の責任を負わない」という過酷なもので、ジャッキー・チェンさんは、貧しかった両親に、半ば身売りされていたのでした。

ジャッキー・チェンと両親
ジャッキー・チェンさんと両親。

ジャッキー・チェンは7歳で子役集団「七小福」の選抜メンバーとして京劇の巡業に出ていた

それでも、ジャッキー・チェンさんは、ここで、兄貴分のサモ・ハン・キンポーさん、ムードメーカー的な弟分のユンピョウさんたちと知り合い、寝食を共にすると、

やがて、3人は、「七小福」という子役集団の選抜メンバーとなり、京劇の巡業に出ると、あちこちで意気揚々と技を披露したそうです。

「七小福」時代のジャッキー・チェン
「七小福」時代のジャッキー・チェンさんとサモ・ハン・キンポーさん。

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ジャッキー・チェンは17歳の時には危険なスタントに挑み続けるも事務所に搾取されていた

ただ、時代の流れから「京劇」の人気はじわじわと下火になり、1971年、17歳の時には、「七小福」は解散となり、中国戯劇学院も閉鎖に追い込まれたことから、

仕事がなくなったジャッキー・チェンさんは、サモ・ハン・キンポーさんの助けもあり、映画界で、エキストラやスタントマンの仕事をするようになったそうで、

やがては、交際していた彼女との別れをきっかけに、危険なスタントにも果敢に挑むようになったのだそうです。

ちなみに、スタントマンの仕事は非常に過酷だったそうで、ジャッキー・チェンさんは、鼻、顎(あご)、足、首、頭蓋骨(ずがいこつ)を骨折するほか、シャワーを浴びるだけで、時々、足が脱臼(だっきゅう)することもあったといいます。

また、当時は、契約がいい加減で、ギャラの90%を事務所に持っていかれるということもよくあったそうで、どれだけ働いても、ジャッキー・チェンさんは貧乏から抜け出すことができなかったのだそうです。

「【画像】ジャッキー・チェンの若い頃は?現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く

お読みいただきありがとうございました

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